わたしの記憶が確かならば
1990年代までは
文系といわれる領域で多量の読書をし続ける者たちは
イロニーやアイロニーをふんだんに用いつつ
捻れに捻れた表現や身振りでコミュニケーションをとるのが
ごくありふれていた
たぶん
ごく単純に
一般人の読書量が音も立てずに減少し過ぎた結果
イロニーやアイロニーはまったく使用できなくなってしまい
おしゃべりや議論においては
初心者むけの教養放送のアナウンサーのしゃべり方しか通用しなく
語源にあたるギリシア語の
エイローネイアー εἰρωνεία「虚偽、仮面」
完全に失ってしまったのだ
多くの場合
アイロニーやイロニーでは
本当に思っていることや言いたいこととは違った表現を
わざと言ってみることによって
風刺したり
嘲弄したり
相手の教養の範囲や理解力の推し量りを行ったりするが
相手にどの程度わからせるかはその都度いろいろあるとしても
いずれにしても
才気と教養を備えた者なら気づかずにはおれない
分厚いユーモアのマフラーをかぶせてある
相手としては
じぶんが批判され嘲弄されていると気づいても
同時にユーモアで包まれていることにも気づくものなので
正面切って憤慨して返すのでなく
ニタッと微笑んで受けとめるということになる
アイロニーとイロニーは
相手の知性と教養の幅に訴えるものであり
こちらと相手とのあいだに暗黙の了解があるのが前提であり
共有している広範な知的世界があってはじめて成立するものなので
『イロニーの精神(L' ironie)』において
ウラディミール・ジャンケレヴィッチVladimir Jankelevitchが
「イロニーはそれ自身が迷わした者に救いの竿をさしのべる」
と言っているのも理解できる
これは人間界の最も高尚なコミュニケーション法のひとつなのだが
2000年に入ってから
この系統のコミュニケーションが滅びてしまったことで
日本語表現の世界は
完全な冬枯れに入った
おっと
冒頭に置いた
「わたしの記憶が確かならば」
という
誰でもすぐにわかるはずだった表現も
現在では
注釈めいたことを添えておかなければ
ランボーの『地獄の季節』の冒頭の句だということも
わからなくなってしまっているのだろう
小林秀雄訳でなら
このようだった
あの冒頭
かつては、もし俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴(うたげ)
ある夜、俺は『美』を膝の上に座らせた。 — 苦々しい奴だと思った。 — 俺は思いっきり毒づいてやった。
(ランボオ『地獄の季節』、小林秀雄訳)
フランス語原文なら
これ
Jadis, si je me souviens bien, ma vie était un festin où s’ouvraient tous les cœurs, où tous les vins coulaient.
Un soir, j’ai assis la Beauté sur mes genoux. — Et je l’ai trouvée amère. — Et je l’ai injuriée.
Je me suis armé contre la justice.
Je me suis enfui.
Ô sorcières, ô misère, ô haine, c’est à vous que mon trésor a été confié !
Arthur Rimbaud, Une saison en enfer, 1873
ここに引いた小林秀雄の訳にはないが
フランス語の引用の最後のほうの
Ô sorcières, ô misère, ô haine, c’est à vous que mon trésor a été confié !
がいいのだ
おお 魔女たちよ、貧窮よ、憎しみよ、おまえたちになのだ、
misère
という単語は
文系の詩歌大好きさんなら
仰々しく「悲惨」とでも
まずは訳してみたがるのではないか?
「悲惨」は
いろいろなことの欠乏の結果を言い表わせるから
それでもいいし
汎用性は高いのだが
極貧の状態や
弱さの極み
無能さの極みを表わす語だと思い出しておけば
これを書いた頃のランボーの生活からすれば
なによりも
「貧乏」や「不如意」や「欠乏」こそが
本人の生活意識の中では踊っていただろう
ランボーが言う「ぼくの宝」は
彼が書き落すあれらの詩句に止まらず
そうした詩句を足場にして
むこうへ
さらにむこうへ
遠くへ
踏み出していこうとさせる魅惑であり
憧れであり
導きのひかりのことなどであっただろうが
それらは
いま自分の心身がある実生活の中では
ものや金の欠乏と密接に重なりあい
それゆえに物を持てる者たちへの憎しみと絡まりあい
この窮乏の実生活を超えるための
また
詩的精神的超越のための
一種の魔法修行への意志とも
ぴったり重なっていたに違いない
ランボーよりも
はるかに年齢を重ねていく者たちは
ある意味しあわせなことに
自然と
わかるようになるだろう
「ぼくの宝」が
「貧窮」とともにあり
「憎しみ」もともにあり
「魔女たち」までも
いっしょにあることが
なんという奇観であり
幸福であり
これこそ地上的リアルであるか!
ということを
幸福とは
地球上にあってこそのリアルさを
目の当たりにしていられる
耳にしていられる
触れてもいられる
という
ことである
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