詩のようなかたちをわざわざ使って書く際には
文章で扱うような細かな分析的思考は
ぜんぶ取っぱらって
詳細も大方は省いてしまい
乱暴な概括化をしながら
わかりいいオブラートに包むようにして
楽にらぁくに
わかりやぁすく
書くわけで
なにも
こんな簡便な考え方
書いている本人が
ふだんから全くしちゃぁ
いないわけですよ
詩みたいなかたちが根底から創作だ
100パーセントのでっちあげだっていうのは
そんなところにも
わけがあるわけでね
しかし
そんなことをわかりきって
いろいろな形式で表現をし続けてみると
まったく
人間の表現ってのはなんなんだろうって絶望的になる
ちゃんと語ろうとすれば
けっきょくは誰も読まないような
誰にも到達しなくなるような重箱の隅もいいところの
無限の表現の堆積になるし
(たとえばフッサールの現象学思索のノートを見よ)
(たとえばデリダの全著作の読解研究をすることを思いみよ)
(たとえばスコラ哲学の総合的再考を思いみよ)
いくらか他人に伝わるように
わかりやすいプレゼンを考えれば
テレビCMみたいな愚劣なコピーのかたまりに
コロリ
ってなっちまうし
そうして
そういうものだけが
そういうものだけが
コロリ
ペロッ
って世の中では伝播していって
やがてはふたたび
一億玉砕火ノ玉ダ
みたいに燃え広がっていくわけだ
どうしようもないじゃないか
人間の集団ってのは
人間の社会ってのは
人間の地上ってのは
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