「ああした遊びはみんなやってみた」
ル・クレジオ『愛する大地』
生きていて
揺動し続ける意識があれば
誰でも何ごとか「思」っているだろうし
その思いが口から声に乗って他人の耳の鼓膜を振動させれば
他人はなにかしらの印象を受けとり
脳内に反応を起こすだろうが
しかし
誰の思いも結局は大同小異であり
つまりは声に乗ったり文字に乗ったりしなくても
もともと他人の意識内に原型があったはずで
だとすれば
そもそも表白などされる必要がなかったといえる……
こう書き落としてみれば
すぐに味気ない理屈のようになってしまうのだが
ほんとうは
なにを口に出すにも
なにを記しはじめるにも
こんな但し書きからはじめないと気が済まない性質なので
いきなり
白雲の浮かぶ空を語ろうとしてみたり
打ち寄せる波の音が絶えない浜辺の光景を描写しようとしてみたり
街にそぼ降る雨に濡れた大通りに滲む信号機のひかりの色を
こうでもないああでもないと言葉にしようとしてみたり
そんなことは
辛かったし
苦手だったし…
しかし
それでも
辛かったし
苦手だったし…
しかし
それでも
ほぼ
みんな試してみた
まだ試し続けられる
いくらでも試し続けられる
でも
生前葬をしておくべき時だ
言葉界に対しても
さようなら! 20世紀後半から21世紀までの日本語!
ずいぶんたっぷりと使わせてもらったよ!
さようなら! ぼくが滞在し滞留した数十年の地球!
さようなら!
さようなら!
さようなら!
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