2020年5月11日月曜日

やっぱりフィリップ・K・ディックやラブクラフト



 ときおり私は考え、ときおり私は存在する……
 ポール・ヴァレリー


ウィルスが自然発生でないことなど
いまどき当たり前のことなのに

世界規模で起こる大きな出来事がどれも人為的であることなど
いまどき当たり前のことなのに

どこの大資本と繋がっているかわからない専門家たちや
言うまでもなく利権まみれの政府や各種の団体などのご託宣に
唯々諾々と従え
なんて自分から動いちゃう生来のナチス党員も多くて
まったく飽きない地上の風景です

……そう定期短信を宇宙母艦に送ってから
手に取って読み直しに忙しいのは
やっぱりフィリップ・K・ディックやラブクラフト
彼らのものだって
べつに地上言語で読む必要はほんとはなくって
アストラル界の彼らの波動にそのままアクセスすればいいんだけど
地上言語を通して読みを徹底的に鈍化させることで
省察の機会も得られるのはたしか

むかし中近東で現地の臨時ガイドの若者に
灼熱の日中の砂の上で
日本の桜餅がどれだけ美味いような美味くないような
微妙な味わいかを説明をしてみたことがある
うまくいかなかったが
Sakuramochiなる音とぼくの歪んだ説明が
若者の想像世界に激甚なる衝撃を与えたらしいのが楽しかった
情報とはなにか
どのようでありうるか
いい加減さや不正確さがどれほど美しいものを生み出すか
いろいろ思わされながら酷暑の照り返しを目に受けているのも
生の快感の目くるめく瞬間と感じられた
この瞬間の回収をぼくは将来どのようにするのかと
呆然としながら思った

この若者はイスラム国が騒いだ時に
どちらの政治勢力や軍事勢力につくでもない曖昧さのゆえに捕まっ
生きたまま首を掻き切られたと後で聞かされた
ずいぶんひどい最期と思えるが
ひとりの人の死に方はどんなものがいいとも言えない
全身にチューブを何本も繋がれて完全看護されて死ぬのが
ひどくない死に方だという思い込みが
そういえば日本列島には数十年
はやり病のように流行ったことがあったけれども

首を掻き切られた
ということからふと思い出してしまう三島由紀夫
「現実が一つ崩れたあとも、すぐに別の現実が結晶しはじめて、新たな秩序を作り出すという観念に、いつのまにか馴れはじめている自分に気づいた」
『豊饒の海』第二巻『奔馬』

三島由紀夫のホンモノは
自決の少し前に東京池袋の東武デパート「三島由紀夫展」で
大人たちの立ち並ぶ隙間から見たことがある
三島由紀夫はサインかなにかをしていて
人々はそこに群れていた
小学生だったぼくは大人たちの隙間に入っていって
なにをやっているのか覗いてみた
もちろん小学生に三島由紀夫はなんの意味も面白みもない
バッタのような頭のぎろぎろした目のオジサンは厭な感じだった
ただそれだけのことだが
あの人の頭が切り離されたのかと後で思ったが
切り離されてもべつに残念でもない頭だなと思った
小学生は残酷な生物なので
ミシマユキオというネタはそこで終わってしまう
それ以後ながいながいあいだ
東武デパートの「三島由紀夫」展の
余興というか
特別イベントとして
あのオジサンは切腹して首を切らせたんだろうな
と思えてしかたがなかった

この冷酷がぼくの精神の基本である
それどころかこれがぼくの99%を占めている
したがって日本的感傷主義は春の雨ほどの浸透効果もないし
19世紀ブルジョワが捏造したヒューマニズムにも腐食されない
そういえばコロナがどうとか
言っている人もいるそうだがな……
などと
絵に描いたようなおとぼけもしてみようかと思うが
いや
いや
やっぱりフィリップ・K・ディックやラブクラフト
母艦への通信も
けっこう忙しいものだし




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