名人はあやふきところに遊ぶ。俳諧かくのごとし。
松尾芭蕉 『俳諧問答』
芭蕉の句のなかでも
花の雲鐘は上野か浅草か
これは
東京の人間には
肌に
ぴったり
くるような
句だろう
深川の草庵から
桜満開のようすを遠巻きに見ていると
鐘の音が響いてくる
はて
これは上野の鐘か
それとも
浅草の鐘か
そんなふうに読め
と
たいていの解説にはあったりする
上野の桜も
浅草のも
両方が見えていて
なんだか
両方に同時にいるような気に
うっかり
させられる
が
そのどちらにもいないからこそ
鐘は上野か浅草か
と書かれている
ひょっとしたら
見えている満開の桜は
なかなか立派ながら
近所の桜で
上野や浅草では
きっと
もっと賑やかに咲き満ちているだろうか
と想像しているのか
しかし
鐘は上野か浅草か
と書かれると
やっぱり
上野にも浅草にもいるような感じが
出るので
わかっていながら
馬鹿みたいな錯誤に進んで陥っておきたくなるような
ヘンに巧妙な詐術があって
そこが芭蕉だと
思わせられる
ほんとは
上野にも浅草にもいない
さびしさ
も
ある
句
しかし
上野の鐘も
浅草の鐘も
聞けてしまう場所にいる
贅沢な
句
だが
やはり
いんちき極まりない
句
でもある
芭蕉庵の在処が
もし
現在の芭蕉記念館の近くだったなら
そこからは
上野の桜など
見えるわけがない
浅草の桜など
もっと遠いので
いよいよ
見えるわけがない
だいたい
上野や浅草の鐘が聞こえたかどうか
それもあやしい
聞こえてくるのは
もっと近いところの寺の
鐘ではないのか
いや
上野や浅草の鐘が聞き分けられる
というのなら
なかなかの
鐘聞き巧者ということになる
さて
東京の人間や
江戸っ子で
上野や浅草をよく知らぬ者はいないから
上野か浅草か
と言われれば
芭蕉にいまさら言われるまでもない
と誰もが思う
そう思わせる巧みさは
さすがに
芭蕉だ
さらに言えば
芭蕉の巧さがいちばんわかるのは
じつは
江戸について
あまり
くだくだ詠んでいないところ
語り出せば
江戸っ子なら芭蕉ごときには
負けていないだろう
そんなところを詠むんなら
おめえ
どうしてこっちは詠まねえんだ?
と
やり玉に
上げられる
に
決まっている
なんせ
相手は
口うるさい江戸っ子
なんだから
芭蕉はあきらかに江戸の通ではない
江戸を正面から扱えば江戸っ子たちには負ける
それを
よくわかっていて
しっかりと逃げたところが
たいした奴だ
と
江戸っ子や
東京人は
はっきりと見抜く
で
芭蕉のことは
許してやる
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