2025年10月29日水曜日

たったひとりだけ賢明であるのを望むのは


  

 

にこやかに

あまりといえばあまりに多額の国富を

差し出すことを

外交交渉の成功と呼ぶのなら

無邪気に笑いながら人身売買されていく赤ん坊こそ

最高の外交術を弄していることになり

最高の交渉人であることになるだろう

 

損して得取れ

とか

相手にも儲けさせてやれ

とか

商売上のそんな知恵もあるのは知っているが

こちらから出ていく金ばかり多くて

むこうからは全く入って来ないとなれば

ただの愚かなお大尽様か

大判振舞いしか能のないボンボンか

カツアゲされているか

しかない

 

むこうに差し出す金は

国民の税金の積み上げのはずだから

大企業の今後の利益にだけなるような使い方も

あまりに筋をはずれているだろう

大企業の工場も今後はむこうの国に作るとなれば

失われていくのは金だけではなく

技術や発想までも奪われていくことになり

そこまで吸い尽くされれば

後は核のゴミなどの国際処分場列島に

なっていくほかないだろう

 

むこうの国からは

何十兆円差し出されてくるのだろうか

経済はつねに今後の儲けの見通しを立てて

計画の立案をしていく世界なのだから

まさか出資を下まわる収入で

満足するのではあるまい

 

「たったひとりだけ賢明であるのを望むのは

大きな狂気である」*

とラ・ロシュフーコーは書いたが

巨大な根本的な狂気に

世の中が踊り続けているなかでは

えじゃないか

えじゃないか

えじゃないか

というぐあいに

「たったひとりだけ賢明であるのを望む」のを捨てて

踊りに加わるべきなのだろうか

 

 

 

 

*François de La Rochefoucauld

C'est une grande folie que de vouloir être sage tout seul.

Réflexions ou sentences et maximes morales, 1665

 





この地上とのつき合い方

 

 

 

この地上との

わたしのつき合い方は

シンプルである

 

時間が過ぎていくのを楽しみ

空間のなかに身を置くのを楽しむ

 

それだけである

 

時間と空間のないところはないから

いつどこでもわたしは楽しい

 

空間にはかたちがあり

色がある

かたちには感触があり

肌触りがあり

温度がある

空間と感官との出会いによる

これら贈り物をも

わたしは楽しむ






2025年10月26日日曜日

ただの藻屑

 

 

  

衣食が足りるとすぐに社会的に自己表現したがる。

社会のなかでやはり上へ上へと出ようとするでしょう。

それがやっぱりサークル詩ですよ。

上へ上へーー社会と同じ構図なんだ。

それは違うんだな。

芸事は物好きのすることですから。

堀川正美「現代詩の問題点と方向(インタヴュー=渡辺武信)」

in「現代詩手帖」19663月号

 

 

 

 

 

ことばによってであれ

物質的な素材によってであれ

ものを作るのは

作ることが純粋に好きだからでなければいけないし

かりに好きでなくても

どうしても作らざるを得ない衝動に

動かされてしまう

というのでなければ

いけない

 

そのようなことから作るひとは

作ったものが他人にどう評価されようが

無視されようが

関係なく作り続ける

 

そのように作る場合

作る過程で

また

作り終えた時点で

作ることに関わる価値論も

思念も

感情も

すべて円環を完成し終えている

 

けれども

この社会で目に入るひとたちのほとんどは

ひとに見てほしいためや

金を稼ぐためや

あるいは

自己存在の確認のようなもののために

作っている

 

それを醜いとまではわたしは言わないが

なんと脆弱なことか…

とは危ぶむ

ものを作るエネルギーの動きに

社会や自我を介入させるのはつねに危うい

ものを作るのは

社会や自我と別の次元で行われなければならず

そうでなければ

「作る」という世界のなかに

肉体も社会の影響下の精神も脱いだ

まったく別の自律した身体を育むことはできない

 

たとえば

ことばでなにか作る

という場合

近代人はすぐに本を作ろうとする

傍から見ていて

本にする価値のあることばを配列し編み出している

という自己認識がそのひとにあることに

驚愕させられてしまう

 

価値はあるかもしれない

しかし

価値はまったくないかもしれない

価値のないことば配列を印刷して世間に撒くとすれば

それは木材や森林への冒涜であり

自然破壊である

 

ここのところを

わたしは

あまり譲らないで来ている

 

ニュースや

情勢分析のための文章と違って

非実用のことばを

詩歌形式に並べていくような場合は

くれぐれも

早急に本にするようなことは避けなければならない

おそらく

一万篇以上の数を作ってみなければ

じぶんがことばで作ることに適しているのかどうかさえ

わからないのではないか

 

まずは

一万篇以上を作ってみてから

はたして

じぶんに詩歌形式を使える能力やセンスが備わっているのかどうか

判断し

その後にようやく

作ったものの吟味や推敲を行ってみて

さて

本というかたちへの

思いの方向づけ

というものも視野に入ってくる

 

これらの段階を経ないものなど

ただの藻屑であろう

 

 




バッハのゴルトベルク変奏曲の第13変奏曲

 

 

 

音楽を聴く、

という

 

音を鼓膜で物理的衝撃として捉えて

それが神経で脳へ伝達される、

と想像する

 

しかし

伝達されていく音の情報は

脳のどこかで

もう一段階の翻訳径路を経るのではないか?

音とはまったく違う

別の記号システムに変換され

それを感知することを

本当は

音楽を聴く

などと

われわれは呼んでいるのではないか?

 

ティボー・ガルシアとアントワーヌ・モリニエールのギターによる

バッハのゴルトベルク変奏曲の

13変奏曲の演奏を聴きながら

また

こんなことを思った

 

Bach, JS: Goldberg Variations, BWV 988: Variation XIII (Thibaut Garcia & Antoine Morinière)

https://www.youtube.com/watch?v=Boft2fhxbzQ&list=RDBoft2fhxbzQ&start_radio=1

 

チェンバロ演奏が好きなので

この曲は

さまざまな演奏家のものを

さんざん聴いてきたが

ギター演奏も

このように弾かれると

いかにも

この曲にふさわしいと感じられる

 

30年近く前

ピアニストのガールフレンドがいた

 

ショパンを主に弾いていたが

わたしはその頃

ショパンには飽きていて

バッハやバロック全般に熱中していた

 

渋谷の道玄坂にあったヤマハのショップへ

ショパンの楽譜購入で

つき合ったことがあった

店内には

いくつかピアノが置いてあり

客は

自由に弾いて試すことができた

 

ショパンばかり練習している彼女に

ちょっと試すつもりで

「バッハなんかも弾く?

ゴルトベルクなんか、弾ける?」

と聞くと

手近のピアノに向かい

椅子に座りもせず

ゴルトベルク変奏曲の最初の曲であるアリアを

もちろん

楽譜など見ずに

最後まで弾いてしまった

 

まだ

道玄坂にヤマハがあった頃のことで

前後数十年にわたり

渋谷を

知り尽くしていた頃のことだった





まもなく白の靄のなかに

 

 

 

小雨は綿雨のようになり

此処では傘を差す必要も今はない

 

けれども

またすぐにもう少し太く

もう少し大きな粒となって降ってくるだろう

むこうの山嶺は

地上に降りた雲に覆われて

ただやわらかい白だけの世界となっているけれども

あのように此処も

まもなく白の靄のなかに

小さな雨滴の綿のなかに包まれてしまうだろう

 

雨滴がもっと大きくなるとは言っても

傘なしでこの草原を歩きつづけてもあまり濡れないほどの

温かくさえ見えるやさしい霧雨のままだろう

この白さに視界を奪われることのなんという幸せだろう

まるでこの白さとともに此処に現れたかのような意識の

このやわらかさのなんという快さだろう

 

霧雨の雨滴はもうすぐほんの少し大きさを増し

頬を湿らせ手の甲を湿らせ

ひょっとしたら鼻の先をすこし拭いたくなるかもしれない

けれども傘を開くほどではないだろう

やわらかい白に隠されてしまったむこうの山嶺を想像しながら

まだこの草原をゆっくり歩き続けられるだろう

 

暮れれば今日は少し冷えるかもしれない

太い木枠の窓に置かれたランプが暖色に明るみ

夕暮れの室内をきっと懐かしい色と薄闇で染めていくことだろう

 




いない人

 

 

 

去って行った人よ

 

黄ばんだ

古本のなかへ

 

海鳴りを安いプラスチックの水筒に閉じ込めて

一度だけ

訪ねた最北の岬の

最寄り駅発券の切符を

定期入れの裏ポケットに入れて

みどり

滴る

溢れる

繁茂する草原の夏に

人生の至上の時を賭けて

わたしたちの軌道を逸れて行った人よ

 

放課後に聴いた

マーラーの5番のアダージェットを聴き捨てた

津波の予感の日々の果てに

6番の第1楽章に

耳をすっかり移してしまった人よ

 

去って行った人よ

 

音も立てずに猫はわたしたちの部屋に入り

やさしくも

いちばん貴重なものは盗らずに

夏への扉から

また抜けて行った

 

ジャスミンの茂る柵で囲まれた

サルスベリと

キンモクセイの木が目と鼻を楽しませる小さな家で

あんなにも長く

わたしたちは暮らし

付近一帯の土地を“永遠”と名づけた

 

黄ばんだ

古本のなかへ

 

ロマンチックなものすべてへの

未熟な心の願いそうなやわらかい夢の織物を

なにかのお菓子の空箱だったか

それに詰めて

“永遠”のどこかへ

戯れとして

わたしたちは埋めてみた

 

近くにあった

古い大学のいちばん古びた校舎の

もう使われなくなった大きな階段教室の教壇のわきに

マネキンのように

美しい死のように

立ってしばらく止まってみるのが

好きだった人よ

 

去って行った人よ

 

耐えきれないほど暑いだけで

午後

なにも聞こえない

静寂の青空

 

わたしは

わたしたちから離れて

なにも聞こえないということの音を

鼓膜に吸わされていた

 

すでにわたしはひとりきりだったが

夕方になって

晩餐ともなればわたしたちに

また

ひととき成るのだろうと

知っていた

 

ひとときばかりは

 

黄ばんだ

古本のなかへ

すべては

 

買わなかった

かわいらしかった金魚が

眠さのなかを

泳いで行く

 

そして仮死の戯れを終えて

階段教室のある古びた校舎からわたしたちは

出るのだった

“永遠”のどこかへ

 

“永遠”に

 

古びた校舎の人格が

わたしたちに

とりわけあなたに

ときおり

呟いた

 

去って行った人よ

 

わたしにではない

言葉

 

その頃から

もう

わたしはいない人

 

去っても

行かない人

 

いない人

 




2025年10月25日土曜日

不在者

 

  

若いうちは

年上の者がみな敵にみえる

 

古いもの

既成のもの

それにしがみついて

籠城しているものたちと

戦っている

という思いが

力となる

 

なにか

価値のある変化を

推進している気にも

なる

 

奇妙なもので

いつか

攻撃される側になっている

古いもの

既成のもの

それにしがみついて

籠城しているものとして

矛先を向けられている

 

人生

歳をとっていくのは

まこと

奇妙なもの

 

いつのまにか

用済みの代表格になっており

いつのまにか

人類の敵になっており

いつのまにか

かさぶたになっている

はやく剥がれ落ちていくのを

待たれている

 

しかし

それはわたしの体験ではない

 

古いもの

既成のもの

それにしがみついて

籠城しているものたちから

学ぼうとだけ

してきた

 

わたしは攻撃しなかったし

攻撃されかねない姿を

世の中に

晒してもいない

保持してもいない

 

若さや

歳の重ねに伴う

扱われ方の変化は

わたしには

なんの関わりもない

 

むかしも

今も

たぶん未来も

いわば隠密の者

 

透明人間の

まま

 

いなかったし

いないし

いないであろう

不在者