生きがいとか
生きている意味とか
かかわると
すぐに不正確な思いの谷に落ち込んでいきかねない
それら
粗い判断のゲームからは
もちろんいつも距離をとっていたい
とはいえ
ある種の時間体験や空間体験をしたのはよかった
と思え
それらあってこその生のたのしみ
と感じられるものはある
ひとはそれらを
生きがいとか
生きている意味とか
粗くまとめたがるのだろうけれど
やっぱり
どこまでも
そうした粗いまとめには
距離をとりつつ・・・
ただ
わたしの場合には
そうした
“生きがい”とか
“生きている意味”とかは
他人から離れ
他人と連絡もたえて
たったひとりで空間と時間のなかに置かれた時しか
発生してこない
それらをさらに粗く“幸福”と呼んでみるならば
それらの発生にあたっては
なにより孤絶することが絶対条件で
誰かが近くにいるとか
いっしょに集まってテーブルを囲んでいるとか
もうそれだけで
根本から“幸福”は覆されてしまう
そういうわたしにとって
この2年ほどのねつ造ウイルス騒ぎが
どれほどうれしく
素晴らしいものだったか
言うまでもないのだが
もう一度
いや
一度といわず二度三度
念を押して確認しておきたい
2020年の最初の頃の緊急事態宣言の
ほぼ
無人の銀座で
丸の内で
八重洲で
信号など気にする必要もなく
道路のど真ん中で寝転がっても心配のなかったあの光景こそ
この世で永続してもらいたいものだった
あれほどの“幸福”と
満ち足りた思いを味わったことは
ただの一度もなかった
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