ことしも夏至が来て
曇りがちだったり
雨になったり
街はなんとなく
にぎやかだった気もしたが
これということもなく
過ぎていった
晴れて暑くなった昨年の夏至の日とは
違ったが
夏至のさみしさは
空気のなかに滲みていて
かわることがない
永井陽子の歌を
もちろん
思い出した
夏至の日の愛(かな)しみは人にわかりがたし終日をその傍(かた
たぶんだれかと
夏至の日
ずっといっしょにいたのだろう
「愛(かな)しみ」と書くほどの
夏至の日のしみじみとしたよさ
こころに
かなしさとして感じられてくるほどの
よさ
終日をかたわらにいたのに
どうやら
その人には
このことは感じてもらえなかったらしい
家族だか
よほど
親しい人だかのはずなのに
じぶんが感じた
夏至の「愛しみ」は
とうとう
感じてはもらえなかった
さびしさ
粗い感性の持ち主でないとすれば
人間は
どこまでも内心では孤独
孤独であるほかは
ない
ある程度のことは共感してもらえても
「夏至の日の愛(かな)しみ」
本当に稀
山本常朝の書いた
武士の
あの心構え『葉隠』にも
あった
「心の友は稀なるものなり」
もっとも
永井陽子の歌は
夏至の日の愛しみのかたわらに
終日
いたのだ
とも
読めるかもしれないと
思う
終日
夏至の日の愛しみのかたわらに
わたし
いたのだけれど
そうしてみてさえ
人には
わからないのね
夏至の日の愛しみが
どんなに
いいものか
夏至の日の
愛しみ
というものが
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