バタイユがこう書いている
ことばを
自己が用いるのではなく(不連続な自己の連続)
ことばによって自己が熔解し
連続性に達することが「詩」である
夏のみどりの水田のなかを
列車が疾走していく
わたしも
ふいに
ひとりではなかった
「そうだ、わたしは見られていたのだ」
と
ネルヴァルの
『オーレリア』の
どこかに
あったような
…ちがった文言だったかも
しれないが…
連続性こそが主体で
それが
「私」を利用したり
「詩」を利用したり
するだけのことではないか?
あそこ
小さな村の
小さな
小さな
お稲荷さん
あそこ
登れば数分で頂上に到るような
小さな村の
小さな
小さな
山
列車の疾走は
連続性か
不連続性か
令和の旅でもなく
平成の旅でもなく
昭和の旅でもない旅を
たぶん
している
もっと情感が必要?
情感
ほしい?
なら
おねだりしなさい
ネ
ちゃんと
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