2022年7月20日水曜日

おねだりしなさいネ

 

 

 

バタイユがこう書いている

 

ことばを

自己が用いるのではなく(不連続な自己の連続)

ことばによって自己が熔解し

連続性に達することが「詩」である

 

夏のみどりの水田のなかを

列車が疾走していく

 

わたしも

ふいに

ひとりではなかった

 

「そうだ、わたしは見られていたのだ」

ネルヴァルの

『オーレリア』の

どこかに

あったような

 

…ちがった文言だったかも

しれないが…

 

連続性こそが主体で

それが

「私」を利用したり

「詩」を利用したり

するだけのことではないか?

 

あそこ

小さな村の

小さな

小さな

お稲荷さん

 

あそこ

登れば数分で頂上に到るような

小さな村の

小さな

小さな

 

列車の疾走は

連続性か

不連続性か

 

令和の旅でもなく

平成の旅でもなく

昭和の旅でもない旅を

たぶん

している

 

もっと情感が必要?

情感

ほしい?

 

なら

おねだりしなさい

 

ちゃんと






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