「自己表現」
とか
「~を表現する」
とか
「~をどう表現するか」
とか
さらにすごい愚鈍なのになると
「表現者として云々」
とか
他人に読ませ
他人の理解のために便宜を図ろうとする
説明文
解説文
トリセツ
テキスト
などの類ならば
「~を表現する」
「~をどう表現するか」系課題の発生には
それなりの必然性もあれば
意義もある
しかし
A(意識内容)をB(表象存在)に翻訳(表現)する
という表象使用構造を根底から破壊しなければならない詩歌や
詩歌的散文にあっては
「表現」という概念は最初から捨てられねばならないし
ましてや「自己表現」など
不適切概念の最たるものである
詩歌においては
A→B
という行程が存在しないばかりか
最初から積極的に破壊され
排除されねばならない
B
しか存在しないのが
詩歌領域である
そして
B
にはいかなる意味もなく
読解の公式もない
それは
ただの存在であり
なにかを「表現」などしていない
接触者がそこになにかの「意味」を感じとるのは自由だが
感じとられたその「意味」は
その瞬間の接触者の思念を外れた場においては全くの無効であると
接触者は知っていなければならない
すなわち
そのBについて
なにかを説明しようとしたり
評論しようとしたりする接触者の行為は無意味であるばかりか
過ちである
ゆえに詩歌や詩歌的な散文に対しては
評論や批評は一切無意味となる
こんな当たり前のことを
ときどき
くり返して洩らさねばならないように
感じてしまう
もう
21世紀なんだよ
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