あそこに風景がある。
見えているあのあたりを風景と捉えている。
あれを風景と捉えているわたしがある。
風景というふうにまとめて見ているあそこには、菜の花が
すこし背高く伸びた群生があって、
あかるく、素朴な、昔ながらの春が、咲き出ているように見える。
あっけらかんと黄色い春がそこにはあるようで、
いいな、と思う。
春はやっぱりいいな、とも思う。
どんなものでも視界にひとかたまりにまとまれば、風景と
まとめて呼べるように感じるが(もちろん、
もっと難しい考え方もあるのを知っているし、柄谷行人がかつて
書いたように、「風景」が江戸時代には存在せず、
明治以降の発明であった、という説も知っている)、
そんな風景のなかに、黄色のかたまりが見えるのは楽しいし、
それが生き生きと咲いている菜の花から発せられている黄色の場合 、
子供の頃から毎年経験し続けてきた日本の春のうちの、 今でもちゃんと
続いてきているものが、見知った、良い意味でありきたりの、
当たり前のものであるようで、ホッとする。
すこし飛躍するようでも、こんなところから、風景というのは、
ホッとするような、しかも、ちょっと遠巻きに、
凝視せずに眺めていられるような視覚的空間のことだろうか、 と思う。
近過ぎる視界のなかのイメージのまとまりを、やはり、風景とは
呼べないだろう。
ある程度の遠さがあるにしても、家の庭を
俯瞰して見てみる場合にも、風景とは、やはり、言わないだろう。
ルイ14世はヴェルサイユ宮殿の、森からなるあの広大な庭を、
風景だと思いながら、眺めただろうか。
あんなに広く大きくても、
それが自分に属する庭だと認識ながら見た場合には、風景とは、
思えなかったのではないか。
所有の感覚は、地上の物質的な生が手放せないものではあろうが、
それでも、そんなものが心に染みていることの煩わしさは、
意識から消せないほどうるさいもので、非所有の解放感のなかで、
森や林や、草原や、集落や、町を見てみたいことは、おそらく、
誰にも多いだろう。
おそらく、風景は、非所有を保証された視界内の
あそこであり、そこでなければならない。
わたしのものでなど、ないものが、
あそこに見える、見えていることの、
この、なんという救い。
わたしのものでない、ということこそ、
じつは、もっと、
わたしのものであるがゆえに。
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