2019年10月26日土曜日

身のようなものを支えるために



                 小説が書きたい……
                    中上健次


むかし同僚だった男の話には
すこし驚いた

人見知りの激しいところがあったが
やさしくて誠実だった
信頼できる男で
たしかに一度もがっかりさせられたことはない
勤め先を私が離れてからは
一度も会わなかった
夢や望みをたびたび語り合ったわけでもないから
その後どう生きていったかわからなかったが
平穏に幸せに生きていくはずだと思えた

結婚して
子どもが二人でき
ずいぶん可愛がったようだ
男の子と女の子だったという
妻がどんな人だったか
話を伝えてくれた人は語ってくれなかった
その人も他人から聞いたようなので
よく知らなかったのだろう

男は子ども二人を刺し殺して
路上に出て自分も頸動脈を切って死んだという
妻のいない時だったという
妻が働きに出ていた時なのか
買い物などで外出していた時なのか
わからない

むかし同僚だった男のこの話には
すこし驚いたが
いっしょに働いていた頃の彼しか知らないので
どう受止めていいか
わからない
いろいろなことがあったのだろう
と思おうにも
彼とのあいだには
もう
あまりに懸隔ができていて
事件が起こった頃には
私には未知の人格というべき人になっていただろう

事件が起こったのも
もう
今から23年前のことでもある

この話を
偶然聞かされたのも
もう
9年前のことなのでもある

人見知りの激しいところがあったが
やさしくて誠実だった
信頼できる男で
たしかに一度もがっかりさせられたことはない
同僚としての
そんな人となりだけが
はっきりと
私の意識のなかに残っている

世間の記憶から
切り離されて

彼自身の存在からも
たぶん
彼自身の魂からも
切り離されて

私の意識のなかだけに残り続ける
あまりにたくさんの
今ではなにからも切り離されてしまっている
人となり
物となり
それらの氾濫に小突かれ続けながら
かろうじて
つかの間でも
身を支えるために
身のようなものを支えるために
書こうか
書こう
思う




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