2017年10月10日火曜日

『シルヴィ、から』 37

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第二十声) 2


 公民館の出入口の前に、車が一台ようやく通れるほどの砂利敷きの村道があり、その道は、少し離れたところに見える大きな屋敷へと通じていた。
この道を走り、門をくぐり、庭を抜けて、日本風の大きなその屋敷にわたしは駆け込んだ。
 玄関には誰もいなかった。
靴を脱いで上がり、玄関から入ってすぐのところにある暗い灰色がかった襖を開けた。
すると、控えの間のような体裁の、横に細長い、が、人が百人は軽く入れそうな畳敷きの部屋があった。
その部屋を突っ切って、向い側にある同じような部屋を開いた。
ふたたび同じような部屋が現われた。
そこにも、誰の姿もなかった。その部屋もまた同じような襖によって、わたしには未知の、さらに奥の向こう側の部屋へと通じているようだった。
わたしはその襖を開け放った。
また同じ部屋、また同じ襖だった。
次々と、襖を開いて踏み進む以外にはなかった。
こうやってひとつひとつ進んでいくのでなく、他になにかもっと能率的な方法はないだろうか、とわたしは考えた。部屋から部屋、襖また襖と進んで行きながら、思案し続けた。今から戻って、長いなめらかな竹竿でも二本探して来ようか。それを二本いっしょに襖の間に次々と通していって、左右に開けば、いくつかの襖はいっぺんに開くことができるのではないか……
そういえば、公民館裏の竹林の奥には、高さ百メートルほどにもなる竹が何本も生えていると聞いたことがある。背が高いわりにそれらの竹は、根本でさえ人間の手首ほどの太さしかないため、優れた釣り竿のようにじつによく撓うという。風の強い日などに、けっして公民館裏のあの林に近づいてはいけない、と云われているのはそのためだ。それらの細くてしなやかな長い竹たちが、強い風を受けてやわらかな水草のように静かに地面に頭を下してきて、犬や猫や人間たちを引っ掛けては、急に体を元に戻したりする。その反動で、引っ掛けられた動物や人間は遠くへ投げ飛ばされてしまうと云うのだ。嵐の後、よく、隣り村との境近くに犬や猫が何匹も地面に打ち付けられて死んでいるのが見られるが、あれは、あの竹たちの仕業なのだと、誰もが信じている。
 わたしは、しかし、こう考えながらも、もちろん、こんな考えの馬鹿らしさに気づいていた。そんな工夫をしようとするほうが、今こうしていちいち襖を開けていくよりもよほど労力を使うし、時間もかかる。
もし、こんな方法を考えることに利点があるとすれば、それは、襖を次々と開けて、屋敷の奥へと入り込んでいっている現在のわたしを、単純で馬鹿らしく無意味でさえあるかもしれないこの作業から解放してくれるかもしれない、という点にこそあった。
だが、本当に解放してくれるのだろうか。解放してくれるように見せかけるだけではないのか。あるいは、解放でもなんでもなく、そもそも、全く質の異なった現象であるにもかかわらず、わたしが勝手にそれを解放と見なして、救われた気持ちになるだけではないのか。
それにしても、どうしてこういったことを考えたり、疑問に思ったりするのだろう、と思う。こんなことを考えてどうするのだろう。なにか利するところがあるのだろうか。
考えようと考えまいと、現象というものは確実に進んでいく。進んでくれている。これは救いだ、これこそ救いだ。これで十分ではないか。
もう、わたしはいくつ部屋を踏み進んできただろう。
いくつ襖を開け放ったのだろう。
襖を開けたのはわたしなのだろうか。
屋敷を奥へ奥へと踏み込んでいくのは、本当にわたしだろうか。
襖を開けて部屋から部屋へと踏み込んでいくのは、確かにわたしだとしても、そうすることを欲したのはわたしだっただろうか。
わたしを動かすのは、いったいなにか、誰なのか。
わたしはどこまで踏み進むつもりなのか。
いったいなにを見出せば、この作業から解放されるのか。
誰か人を見出せば済むのか。
開かない襖に行きあたるまでか。それとも、襖も部屋もすべて尽きてしまうまでか。

(第二十声 続く)



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