2017年10月15日日曜日

『シルヴィ、から』 41

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第二十一声 シセル篇) 2

わたしとシセルは、毎日、陽が昇る頃起き出して、塔の傍らの木のテーブルに着いた。
それは、長方形のじつに大きな長いテーブルで、率直なところ、テーブルと呼ぶにはいささか粗雑な、ーー良く言えば、これ以上は望めないほどに地の木の感触を生かした造りの代物だったが、とにかくもそのまわりには20人ほどは楽に座ることができた。もっとも、椅子として使っている輪切りの丸太は11個しかなかったが。
シセルはやがて朝食の用意を始める。
わたしはその間に、円錐塔の向こう側のやや離れたところに流れている川へ行って、木の樽にふたつ、水を汲んでくる。
この地は草ばかりだと先に言ったが、この川だけは別だ。これはけっして小さいものではなく、対岸までは50メートルほどもあった。この川の脇に、1メートルほどの幅の小さな付属した流れが同時に走っていて、わたしは毎日、こちらの流れで水を汲むのだった。
わたしたちは、この小川の水を上水として、本流の水を下水として使い分けていた。
魚を釣るのも本流のほうで、たまには釣った魚を網に入れて、小川の中で飼うこともあったが、この小川の流れの中では魚は大きくは育たなかった。小川の水がおそらく魚には清過ぎるのだろうとわたしは思っていた。その水は、手で掬い上げても、ごく稀に草の葉や実や埃が表面に浮いているだけで、ふつうは、完全と言っていいほどに透き通っていた。流れも非常に速かった。
わたしたちは、この小川が隣りの大きな川の支流にあたるものだと思っていたが、水の質や川の様子などを考えると、ひょっとしたら、隣りの川とは全く異なった源を持つ別の独立した流れなのかもしれなかった。
この小川の内壁や川底は、透明な水のおかげでいつでも見透かすことができたし、それほど深くもなかったので手で触ることもできたが、そういうことによって知れる川底や川の中の壁は、まるで硬い石かなにかのように感じられたものだった。確かに土でできているのだったが、それらは驚くほどかたく固められていて、目にそれと知れるほどに夥しく水に溶け出すこともなければ、長い間に水底のかたちが変わることもなかった。おそらく、多量の粘土が土に混じっていたものと思われる。あるいは、粘土の上に土が少量撒かれていたのかもしれない。そのいずれであったとしても、この小川の成り立ちは、どうも自然なものとはわたしには思われなかった。昔、誰かがこの水道を延々と掘り進み、踏み固め、それから水をこのように流したのに違いないと思っていた。そう考えながら見ると、ふと目についた川底のある部分に鍬かなにかの跡が見出されるような気のすることもあったが、どれもこれも、それほどはっきりしたものではなかったので、結局、考察の足しにはならなかった。
ふたつの樽に水を満たして、取っ手として付けた縄を持って釣り合いを取りながら、それをテーブルのところまで運んでいく。テーブルの傍らにそれをわたしが置く頃には、シセルはすでに朝食の用意を終えてしまっている。
わたしはいつも、どうしてシセルはこんなにはやく用意ができるのだろう、と思った。
というのも、朝食の用意はわたしたちの分だけではなく、全部で九人分ある。わたしたちのものの他に、同時に七人分が用意される。毎朝、あまり意味のないことながら、(というのも、シセルが間違いをしたことは一度もなかったからだが)、これら、並べられたお皿やコップの類がちゃんと必要な数だけ出ているかどうかを、わたしは数えてみる。はじめにお皿を数え、次にコップを数える。食器の種類や数は日によって異なったが、わたしが最後に数えるものはいつもスプーンと定めていた。つまり、お皿で始めてスプーンで終わるという習慣がわたしの内部にできていて、その順序を変えたりすると、朝という一日のはじまりにあたって、なにか不安な落ち着かない気持ちになるおそれがあった。
ひとつふたつ、とお皿を数え始めながら、わたしは一日のはじまりを確かめ、また、無言で自分に、『ほら、今日もまたお皿を数え始めたぞ。今日もまた一日が始まるぞ』と念を押す。スプーンを数え終わった時には、『どうだ、スプーンを数え終わったぞ。ぼくの務めが今日もひとつ終わった。もう、今日という日が始まったぞ』と自分を励ますのだった。
その頃になると、がやがやと子供たちの声が響いてくるようになる。シセルはようやくパンを分け始める。子供たちがテーブルに集まってくる。みんな女の子で、子供とはいっても、十一歳から十五歳ぐらいの娘たちだ。全部で七人いる。
わたしたちは「おはよう」と言い交わす。シセルがまだパンを分けているところなので、子供たちはまず、わたしのほうに抱き付きに来る。それが、順番に来るのでなく、みんないっしょになって集まってくるものだから、わたしは毎日朝から揉みくちゃにされる。
これがわたしたちの挨拶なのだ。
わたしたちは、キスをするわけではないが、各人で抱擁しあう。互いに相手の体に腕をめぐらすのが挨拶の印となる。しかも、たがいに同時にこの抱擁が為されなければならないので、わたしたちの挨拶はずいぶんと手間がかかる。
朝食は、たいていの場合はほとんどパンだけだ。
しかし、シセルはパンを10センチほどの厚さに分ける。その上、ただのパンではない。このパンには肉の小間切れやチーズの角切りが入っている。わたしたちはバターを使わなかったが、肉やチーズの味がパンの全体に広がっているので、この上ない美味を味わうことができる。このパンに加えて、さっきわたしが汲んできた水をコップで飲む。三日に一度ぐらいは、名前は忘れたが、なんとかいう草の根を刻んで作ったサラダを食べる。
スプーンはなにに使うのか。朝は使わない。使わないのに、どうして毎朝シセルは並べたがるのか。理由は簡単だ。それがシセルの好みだからだ。使わないのにスプーンを並べるというのは無駄なことに思えるが、シセルが望む以上、わたしにとっては、それはそれでよいと思えた。
朝食が終わる。いよいよわたしたちは一日の中へ流れ込む。娘たちは草原へ散っていく。昼までは帰ってこないだろう。
シセルは食器を片づけると、あらためてわたしの前に腰を下ろす。
なにか話すことがあれば、わたしたちは言葉を交わしあう。
なにも話す必要がなければ、長々と瞳を見つめあったり、手を撫であったりする。
昼食や夕食の用意を除けば、わたしにもシセルにもこれといった仕事はない。
わたしたちは、午前中も午後も、このようにして日を送る。
そして、こういう時間が、わたしたちには最も幸福な時間なのだった。

 (第二十一声 シセル篇 続く)



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