2019年9月29日日曜日

既成宗教のいずれの「神」をも表わしてはいない神のあらわれとして


  
言葉は何も証明しないからである。
三島由紀夫『音楽』



  おお、神よ
  動物の叫び、樹々のふるえ、水のささやき、
  鳥のさえずり、風のそよぎ、雷のとどろきに、
  私は感じずにはおれない、
  あなたが唯一のものである証しを
  あなたが無比のものである証しを

西暦9世紀のスーフィー、イスラム神秘家の言葉
未来永劫変わり得ない詩の真実がここには表明されている
また
詩がなにを扱うべきかも

言葉は
神の栄光を讃え
神への帰依を表白し
神への全幅の信頼と従順を述べることだけを
役割とする
他のことは言葉にはできない
他のことができると妄信し言葉を歪ませた近代の過誤を見よ

言葉はどこまでも実体がなく空虚であり
たゞ指し示す機能のみを持つ特殊な装置であるため
現象界では同じく実体がなく空虚でしかあり得ない神に向かなくなれば
その瞬間から言葉は誤る

「神は不在によってその実在を証す」(シモーヌ・ヴェイユ)が
動物の叫び、樹々のふるえ、水のささやき、
鳥のさえずり、風のそよぎ、雷のとどろき
などを
唯一のものである証し
無比のものである証し
と感じとれる感性を
見てとれる目を持つものには
それらは神そのものである

私はエノコログサを歌い
ススキやアシやヨシやダンチクを
神として歌う
そして
雲を
街の自動車の音を
雑踏する駅を
狭い思考にとらわれた人々の喜劇を
身のまわりの細々を
愚かな政治家たちの愚行を
国際巨大資本が演出する見え透いた人道劇や地球環境劇をも
神のあらわれとして

スーフィーの言葉が
空海や道元の言葉に似ることについて
屡述する必要はないだろう
神が
既成宗教のいずれの「神」をも表わしてはいないことについても

言葉を扱いたいのならば
エノコログサを歌え
ススキやアシやヨシやダンチクを歌え
雲を
街の自動車の音を
雑踏する駅を
狭い思考にとらわれた人々の喜劇を
身のまわりの細々を
愚かな政治家たちの愚行を
国際巨大資本が演出する見え透いた人道劇や地球環境劇をも歌え
神のあらわれとして

既成宗教のいずれの「神」をも表わしてはいない
神のあらわれとして


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