「ほらここに!」「ほらあそこに!」と言ってあなたがたを惑わすもののために警戒しなさい。まことの人の子は、あなたがたの内側に存在するのだから。それに従いなさい!
『マリア福音書』*、ベルリン写本八五〇二
『マリア福音書』*、ベルリン写本八五〇二
この道を行くと出るあそこは
ほんとうにそこなのかと問い直せば心もとなくて
それでもここまで来てしまったんだから
たとえ間違っていても一度あそこに出てみるのが
やはり一番いいのだろうと思われて
こんなふうにあそこへと進み続けているわけなのだけど
心もとないことは他にもあって
どうしてこんなふうにそこを求めてしまうのか
子供じみたやり方だと思う時もあるし
根本的に誤った処し方かもしれないとも思う
そこに到るのにこだわっていると
そこへのベクトルを内蔵したままの生ということになるわけで
だいたいそこなどというものが
偶然から選択されたそこであるに違いはなくって
偶然を運命だなどと言い換えても同じなわけで
その都度その都度の感情や判断の積みかさねから
暫定的な進路が選ばれたにすぎなかったというのに
いつのまにか馴染んでしまって自分自身のように
なってしまっているという馬鹿らしさ
さらには懐かしくさえなってきてしまって
そこに到ろうとする自分を他人にも顕示しはじめたりするわけで
遠巻きに見直してみると
なんと非理性的な動物かと情けなくもなる
巨視的な判断をせずに選んでしまった方向こそを
主体の座になんか就かせてしまって
いまではそれに頼って日を送っているこの体たらく
ほんとうにそこに到るのでもそうでないとしても
ほんとうにそこに到るのでなければならないのかと問い直すと
出てくる答えは薄れていく波紋のよう
ここまで来てしまったのだからというだけで
ほとんどの人びとは進み続けていて
ただそれだけのことで
ようするに死を待っているだけのこと
ここまで来てしまったのは確かだとしてもここで方向転換でもすれば
たとえ数ヶ月でも違う生になるのも確か
数ヶ月の生など価値はないと思うかもしれないけれど
生まれてすぐに死んでいく乳児のことを思ったりしてみると
やはり十分に価値のあった生ではないかと感じられてくるあの感触を
信じたいと思う
そことか
到るとか
進むとか
向かうとか
いくつかの言葉に突き動かされていただけの数万年だったかもしれない
とにかく隣りやまわりの人びとのようにしないこと
あの人たちがああやっているなら
ああしない
ああするのが常識ならば
ああしない
ああするのがよいとされているのならば
ああしない
停止
転換
あるいは後退
停止
転換
あるいは後退
人類にはつきあわない
人類だって
いくつかの言葉のひとつに過ぎなかったのだし
と
言葉を言葉として扱う
言葉は思いではない
言葉は指針ではない
言葉は心ではない
言葉は魂ではない
言葉は真ではない
言葉は人ではない
言葉は言葉
たんなる言葉
そこにはなにもない
そこには未来も城も建たない
そこには立てず
その外からそれを使う
遠く
異質で
無関係のもの
言葉
言葉は私ではない
私も言葉ではない
私の使う言葉は私ではない
なにを語り
なにを書こうとも
それは私ではない
私という言葉も
私ではない
こんな当然のことを
まったく…
*『マグダラのマリアによる福音書―イエスと最高の女性使徒』(カレン・L・キング著、山形孝夫・新免貢訳、河出書房新社、二〇〇六)による
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