2012年9月10日月曜日

たとえ、我、詩の淵を歩むとも。

                        (2008年6月作)

  

ビン・ラディン兄、どこで何してんだか
見てるでしょ、石油や穀物の
この高騰ぶり
ものが足りないんじゃなくって
すっかり操作されちまって
数字をちょこちょこ弄るだけの連中が
一千年分儲けてるあいだ
時間と労働を売って
かつかつ生きてる連中は
きょう明日とはいわずとも
来月再来月とも知れぬ命
どこの国でもみんなばっくれちゃって
トラック野郎も漁師らも
とにかくもう
やんなっちゃってる
ここでしっかり目的さだめたテロやったら
きみは人類史上しばらくは王様
この時代も数千年後には
後期資本主義聖書にさっぱりと纏められるだろうから
その中でソロモンやダヴィデにならぶ
伝説的な人物に祭り上げられるだろうて
市場操作の中心になら
この際エアバスでもボーイングでもいいから
盛大にやっちゃってもらいたい
世界市場の混乱がどうのこうなんて
気にするこたあない
いまの市場なんて
かつかつ生きてる連中を
さらに難関コースの「難民」に押しやるだけの仕組み
ぶっつぶせば
難民化はもうちょっと富裕な層にも広がって
少しは平等が実現されるってとこ
おお、神よ、主よ、〈自然〉よ
平等に人類がみな不幸になるなら
それこそあなた様のお望みなさること

ちょっと細目を開けてるだけでも
どこもかしこも
だいぶ煮詰まってきているね、世界は
いつ終極に到るか
じゃなくって
もう終極なのですよ
果てまで来ていたのでした
毎日性懲りもなく広大な森林は消えていっていて
崩れ続ける山野に
汚れ続ける大気
ヒトは森や原から出てきた妖精だから
こういう進み方じゃあ
ロクなこたあないね、この先
タマシイというのは体より先に逃げ出すタチだから
都会の混雑のなか
自分の時間と労働を
ようするに命を
売りに行く連中からは
たぶんタマシイは抜けてしまっていると思います
そうじゃなきゃ説明はつかない
ラッシュアワーの電車がどれも
あんなにアウシュビッツに向かう列車に似ていることも
駅や道路やエレベーターなどが
あんなに動物処理施設の処置室までの通路に似ていることも

ヒトをやめたヒトほど
富裕に安楽になる仕組みが軌道に乗って
どれくらい経つのか
出エジプト以前のユダヤ人たちのように
歴史的どころか
伝説的な事態の中にいるというのに
タマシイを抜かれたヒトはのんびりしたものなのである
じつは皆さん
ホトケさまでござしゃったか
なかなかすさまじい悟りもあったものじゃて

ちっちゃい問題のようだけど
郵政民営化をうまくやりおおせた連中の関わっている会社が
しっかり郵便会社をセコムしちゃったり
ああしたりこうしたりしている
とも聞く
(如是我聞なんである)
(文責ないですから)
もともと金を掠め取る長期計画であったのね
そんなことわかってたけど
わからないふりして
押し進める連中をマジで止める連中が
いないんだよね、この国には

これじゃあ
うまく騙して
掠め取った者の勝ちだもの
この先ヒトのDNAは
ずいぶんくせえものになり増さっていくだろさ
地球は青かった…そうだけど
ブルーレットで青いんだよね、今じゃ
大宇宙の便器、地球
醜くおぞましい霊の好んで集まるところ
そういう中で余裕ある生活を享受するのって
けっこうハイレベルの冗談だろか
他人や森や原野や海を見て見ぬふりしないと
ありえないもんね
それって
ナチスの将校のうるわしい
ご家庭みたいで

自由詩は十九世紀以来貧困階級の読まれぬブログである
誰も読まないがごく僅か生き残っているタマシイに記す革命計画である
象徴詩以降詩歌は革命の純粋継続の場となった
たとえ、我、死の淵を歩むとも
たとえ、我、詩の淵を歩むとも
物質で生死を決定される現世社会がどれほど閉塞しようとも
詩人のタマシイは異様怪奇不可思議なラブクラフト的生物として闇に生き延び
ときに社会から時代時代の言語を毟り取り借用して沸出する
詩歌は時代の言語に憑依し一見社会的な理屈心情を代弁するかのように進みながら
かならず一〇〇年以内に根本からヒトを変質させてしまうだろう
たとえ、我、死の淵を歩むとも
たとえ、我、詩の淵を歩むとも
おお、アルベール・ティボーデを思い出しておこう
時代遅れで読む価値もないと思っている連中のケツを掘ってやろう
語れ、アルベール・ティボーデ。

《ロマン主義や高踏派の革命は、征服と組織、詩の安定状態を目的としていた。しかし象徴主義は、不安定な革命の概念を文学の常の状態とした。その概念とは芸術上のブランキスムであり、前の世代を押しのけて、ある絶対にむかって走っていく青年の、権利と義務とである。もし詩人が定型詩詩人と自由詩詩人とに分かたれたのなら、文学は正規の文学と、「前衛」の文学とに分かたれたのである。詩の慢性前衛主義、「事情通」の読者の「なにか新しいことがありましたか?」という問い、青年の公式的な役目、流派や宣言の激増、その流派や宣言によって、青年たちはこの極限の先端を占めようとして、ざわめき立っている海の波頭を、一時間でも獲得しようと競ったのだ。》

アルベール・ティボーデよ、
きみの国の詩史がけっきょくなにを語っているのか凝縮しようとして
寝ずの夜をいくつも俺は過した
ようするに従者から主人への詩のあゆみだな、それは
後から後から出てくる征服者に抗して
通常論理や常識を脱ぎ捨てて超越論理を超越工法で現出させることが
きみの国の詩史だったな
俺はレジュメしてみた
ランボーが詩を捨てる歳になる少し前に
遅れまいと必死になって
こんなふうに


■十一~十七世紀  
王や貴族のため、ないしは王や貴族の目を気にした文学。
  (ヴィヨンのような例外あり。ヴィヨンは中世の学生でアウトロー)    
 
■十八世紀
 1)思想の時代。価値観や社会観、人生観の根本的な衝突。
(2)フランス革命。第一共和国成立。

■十九世紀 
革命の挫折
→ナポレオン独裁(第一帝国)
→王政復古
→一九四八年五月革命失敗(労働者蜂起)
(15000人のアルジェリア流刑)
→ナポレオン三世大統領による第共和国へ
→ナポレオン三世皇帝となり独裁へ(第帝国)
→プロシアとの戦争に敗北
→パリ・コミューン鎮圧(民衆革命の可能性消滅)
(ビスマルクによって釈放された多数の囚人らからなる十三万人の兵による鎮圧。二万五千人銃殺、四五八六人海外追放、四六〇六人投獄。二年間にわたる徹底的な労働者・自由思想家などの弾圧を行う)
→第三共和国へ(資本主義ブルジョア社会の完全成立) 


そうしてこんなコンパクトな偏った注釈をつけた        


○ナポレオンは独裁政治を行ったが、文学を好み、自分でも小説を書いていた。ロマン主義の父と呼ばれ、フランス文学の文体を一変させたシャトーブリアンの『キリスト教精髄』を後押しし、彼を政治の舞台に引き上げ、新たな文学を後援した。(しかし、貴族社会や王制の復活の兆しに対しては厳格に対応し、ヨーロッパにおけるフランスの覇権のために強権を振るった)。
 ロマン主義の詩の最初の成果であるラマルチーヌの出現は、このナポレオンの時代。
○ユゴーは王政復古期に出現。表現の自由と民衆による政治を抑圧するナポレオン世に対して、頑強な抵抗を行う。
○ボードレールは、ナポレオン三世独裁の時代に生きる。民衆疲弊、大資本家優遇、大きくなる社会格差の時代。
○象徴主義の代表詩人マラルメ、ランボー、ヴェルレーヌ、ロートレアモンは、各人の人生で重要な時期にパリ・コミューン鎮圧を経験している。政治、社会への徹底的な絶望が、ブルジョアジーの理解できない言語表現の開拓、政治や社会に関わらない言語表現(コミュニケーション言語や一般的意味伝達のための言語放棄)、言語表現の革命、言語による革命運動の純粋な継続などへ彼らを向かわせた。
○十九世紀末象徴主義(サンボリズム)の象徴主義革命
 1 自由詩の出現
  2 音楽との結合による純粋詩の出現
  3 革命概念そのもの
           →永久革命としての詩



で、二十世紀だ
俺は二十世紀人だった
おお十九世紀よ、ランボーよ、しかし
もう「友の手はない」
俺の育った高度成長期日本の環境とはなにか
戦争と革命と虐殺と過度の貧困と天災が微妙に軌道を逸れたかりそめの園
まるでシャトーブリアンが『アタラ』プロローグで描くミシシッピーの浮島さながらの
花とりどりの平和の園
俺はそこで園丁見習いをしながら
戦争と革命と虐殺と過度の貧困と天災こそが現世の常態であり
それはやがてふたたび爪をむいて襲い掛かってくると考え
自分の小さな小さな爪を磨いては絶望していた
俺たちの園の外ではハリケーンの連続だった
それらにはキューバ危機、文化大革命、中東戦争、ベトナム戦争、光州事件、天安門事件などと名がついた
ああ、ポル・ポトも殺し続けていた
あのバカが


■二十世紀
  資本主義による商品の大量生産と多様化が、巨大な商品実験場、儲けの場としての第一次
大戦を準備する。
  ロシア革命を受けて、労働者・一般大衆の復活。
いっぽう、象徴主義が準備した純粋詩運動はいっそう進化、進行する。
①ヴァレリーへ
(マラルメの弟子。定型詩継承。主体や理性を維持。精神探求)
②アポリネールからシュールレアリストたちへ
(ランボーやロートレアモンから始まった自由詩の発展へ。精神分析学の影響を受けて、意識の探求を深める。主体や理性の放棄、破壊へ)

  いったん象徴詩→純粋詩・自由詩へと進んだ「詩」は、労働者や一般大衆              の「詩」には簡単には戻れない。共産主義の持つ権力主義や軍事主義にも違和感を持つ。
そのため、「詩」は、いっそうの民衆離れを進める。難度は増し、抽象化、私的化が増す。
         
         「詩」はつねに新しさを求めるものでもあるため、ひとつ前の詩世代への反抗や批判や否定も増加する(詩の内部での否定し合い)。

  結果的に、「詩」は、なににも似ていない言語表現であろうとする奇妙に孤立したテキスト
となっていく。(同時代や近い時代のものに似ないようにしようとする結果、逆に古い時代の
ものに似てしまうことさえ出てくる)。
      
  ファシズムでの大勢翼賛傾向が、人間の諸活動に「孤立」を禁止したことが、皮肉にも、
「詩」のこうした進行にある程度歯止めをかけた。
 第二次大戦後の大衆化社会、あらゆるものの通俗化が、さらに「詩」を一方的な純粋化・結
晶化から引き降ろす。

「詩」の純化傾向が止まったわけではないが、「詩」の専門家でない大衆にもわかり楽しめる
ような「詩」の再考がはじまった。
  コンサート、ラジオ、テレビ、レコードなどの再生機器などの発展による大衆用ポップス
「詩」の影響も大きくなった。   



レジュメした頃も今も
俺はどこにいるのだ、俺はなにを杖としてどう進めばいいのだ、と迷っている
詩など詩人にまかせておくさ
ともちろん言えばいいのだが俺の中のカ、ク、メ、イ、が疼くのよ
カ、ク、メ、イ、が
おお、じゆう、びょうどう、きょうだいあい
おお、せいぎ、あい、まごころ
おお、りせい、ちせい、えいえんの…
えいえんの…
疼くのよ、それが
それらが
まさか大宇宙の便器になっちまうとは
思わなかったがな
地球
まだサラバはしない
俺は秋葉原でもやすやすとはやられねえぞ
俺を殺そうとする奴には過剰防衛をするクチだ
先制攻撃をな
本当に殺すべき輩がいるだろう
殺人者希望諸君は力を然るべきほうに向けよ
どんな言葉が有効か
どんな歪まし方、それともマットウさが今の言説には要るのか
アポリネールとサンドラールに学び直すものがあるとこの頃の俺は思ってる
ギンズバーグやウイリアムズはもちろんだが
詩人諸君、ドーヴィニェにも救いを求めるべきか
ロンサールの薔薇のさらさら
あれにもお伺いを立てろというか
立てるとも
立てるとも
牝牛を引いてドイツから脱出する
フェルナンデルの映画『牝牛と兵隊』をひさしぶりに見直して
いつのまにか俺に染み込んでいた二十一世紀トウキョウっぽさを
裏返しにして着直してやるべきだと気づいた
トウキョウ衣を裏返しに来て寝れば
中古の呪術的風習も甦るだろうか
初雁の羽音涼しくなるなへに誰か旅寝の衣返さぬ
凡河内躬恒、新古今和歌集、四九九、秋歌上
恋う人を夢に見るために
恋う人を夢に見るために
あるいは小野小町
いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣を返してぞ着る
古今和歌集、五五四、巻第一二、恋歌二
恋う人を夢に見るために
恋う人を夢に見るために
だれを恋うていたんだったっけかなぁ
だれが恋人でしたか
勝手に走れ、まだまだ、言葉
お前の後をちゃんとついていくわけでもないけれど
憑いていくかもね、亡霊の俺
現代人はだれも亡霊
とっくに死んでるのに生きてるように思い込んで
ふらふら出てきちゃ悪さして死んでく
物は無でしょ、ないんでしょ
色即是空たあ、見事な詩句
物があるってことが無いってことなんだよ
ならば無いものこそあるのか
この論理は乱暴だが
むらさき濃い紫蘇が取り壊した家の跡地に大きな葉っぱをつけて
昨今の風にはらはらと吹かれているのよ
まるで人生のまれな休息のように
ゆうゆうと翻っている
とも言い換えられる、あれ
おおい、誰か決定的な詩を書いてくれよ
俺は読みたい
死期がせまって読む時に
人生の半ばの森で迷った果ての二十一世紀無神論者が
今さら聖書でもないじゃないか
こいつはやったぜ
言ってくれるじゃないのって詩を
書いてくれよ、詩人たちよ
慰めと安楽と
逸楽と予言と
智恵と禁忌と
   部分と全体と
おお詩人たちよ言語運動せよさっきまでの人生観世界観美意識を脱いであざらけくなれあざやげ遊べどうせ死ぬんだから途中でやめるんじゃないよ果てまで行くべさ無意味と無為の道中を


俺はなんだってやる
なんだって読む
なんだって見てやるぞ
エログロ大好きでゴメンな
生れる以前から野次馬
ケルト人の滅亡も
楼蘭の消滅も現地で見ていました
ロシアでナポレオン軍が総崩れした時も
ええ、寒かったけど一部始終鑑賞しておりましてね
人類の恥部も汚辱の世界史もまだまだ見る
うちには殺戮写真の大コレクションが壁中に貼ってあって
そこには大輪の薔薇も可憐なチューリップも挿してある
ベラドンアリリーだって
リコリスだってエリカだって
ワイルドジンジャーだって
ベニバナだって
ストケシアだって
アマクリナムだって
生けてあるぞ
混沌、どっちつかず、めちゃくちゃが好きなんです。それが、なにか?
で、キンタマにガッシュを塗ったこと、あるか?
あるかって聞いてんだ、有史以前から
俺はあるぞ
そうして裸でローマをバイクで疾駆したこともある
ハドリアヌスが俺を見て世をはかなみ
急速に衰弱しておっちんだそうだ
ユルスナールは書いてないだろ、そのこと
まあいいさ
今度はストックホルムか
北京でもやるかな
今度はケツだ
今度は落ちないペンキ
塗りたくったる


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