2023年12月31日日曜日

王光美のピンポン玉でできたネックレス

 

 

 

世間虚仮 唯仏是真

(世間は虚仮にして、ただ仏のみこれ真なり)

    聖徳太子

 

 

 

 

文化大革命で死んだ

中国人の数は

2000万人ともいわれる

 

1966年から1976年まで続いた文化大革命で

きわめて多数の知識人・有識者・学者・技術者などを死に追いやった

青少年や学生は

生き残っている者があれば

現在

おもに70代だろう

60代前半の者もいるだろう

これらの年齢の中国人は

すべて

彼らよりも年長の中国知識人たちを

死に追いやった者たちである

特に

紅衛兵に

加わった者たちは

 

毛沢東により

「資本主義の道を歩む者」

「走資派」

などと批判されて失脚した劉少奇の死に際については

私は何度も読んできている

 

劉少奇は3年近くも

洗面も入浴も理髪も禁止され

見張りの者からは

たえず暴言を吐かれ

暴行を受け続けた

彼を非難する言葉が部屋の壁に貼られ

党からの除名を誕生日にラジオで聞かされた

歯は多く抜け落ち

食事や着替えなどにも手こずるようになった

やがて着替えもできなくなり

排泄物の処理もされなくなった

1969年10月に河南省開封市に移送され

ベッドに縛り付けられたまま

コンクリート剥き出しの倉庫に幽閉される

肺の状態が悪化していたので

担当医師はしかるべき治療をしようとしたが

上層部は一般的な肺炎治療薬の処方しか認めなかった

11月に70歳で死亡すると

葬儀を行なわれることなしに

「劇症伝染病患者」扱いで深夜に火葬された

彼の死は国民や国外には秘匿された

 

あからさまな処刑を行なうのでなく

隠微に生活条件の極端な劣化を押しつけ

見えないところで暴力を浴びせ

社会的にも精神的にも崩していくやり方は

劉少奇以外の知識人たちに対しても行なわれた

辱めを与え

衛生条件や栄養条件を極端に劣化させ

心と精神を挫き

自殺や無反応へと追いやる

これは日本の「いじめ」においても

ごく普通に見られる方法の極端な形態であり

人類の残虐性や冷酷さを観察しに降り立った私たちには

つねに興味を惹かれる現象であり症例である

 

失脚した当初の劉少奇には

工作用紙で作られたサングラスがかけられ

夫人の王光美には

ビキニの水着に模した衣装が着せられ

ピンポン玉でできたネックレスが首にかけられて

「ブルジョワ!」との非難が浴びせられた

 

子どもっぽさ丸出しの「いじめ」そのものだが

ここからすべては始まっていくのだ

 

というより

こういうことを喜んでやる若者たちを

焚きつけて

紅衛兵

などと名づけてまとめ上げ

加速度的に度を増していく「いじめ」を煽って

じぶんひとりの

本当にただひとりのための

権力を強化していく

サル山のトップが

あそこにも

ここにも

どこにでもいる

 

共産党に公認されるまでになった紅衛兵は

約1000万人規模で天安門広場に集まり

毛沢東と会見するまでになったが

やがて

分裂をくり返すようになり

武力闘争まで起こすようになって

「反革命的」とのレッテルを互いに貼りあい

じぶんたちこそが「革命的」だと主張しあい

ついには

毛沢東の父が富農だった

と摘発さえし始めて

政権によるコントロールができないまでになった

核開発関連施設を含む国家軍事施設への侵入や攻撃も行ない

毛沢東を護衛する8341部隊が撃退したこともあった

 

共産党政府はついに

1967年に紅衛兵排除を決定し

人民解放軍が紅衛兵の処刑を開始する

約1600万人の学生たちが農村や辺境に下放され

多くが過酷な環境のなかで死んでいった

 

毛沢東の権力闘争用の利用価値を失った時点で

紅衛兵は全員

単なる大人数のやっかい者となり

最終的に

社会的に処分し

生命的にも処分するほか

なかった

 

1978年に

共産主義青年団第10回大会準備委員会の

「紅衛兵問題についての指示を請う報告」が承認され

紅衛兵組織の取り消しが全国に伝達された

再建され出した共産主義青年団の組織が

紅衛兵の組織と重ならないように

これまで伸していた紅衛兵の組織を完全消滅させるように

刷新・純化する措置だった

 

ここのところの措置の研究は

ひとつの社会の変容や革新のありようを見る際

非常に興味深いだろう

 

戦後日本に伸してきた日本的紅衛兵組織である

自由民主党の組織の根源的な分解のために

参考になるところが多いはずである

 






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