私ァもう、全く世の中には飽きちまひました。
永井荷風
これもまた
小津安二郎の映画『東京の合唱』(1931)についての
講義のなかで……
45:58のあたりで
娘の急病によって、主人公にお金の問題が突きつけられます。
社会生活のほとんどの問題は「お金」から来ますね。
だんだん、髪の毛が乱れてきています。
無声映画では、「お金の問題で心理的にストレスを負う」という抽象的なことは、そのままでは表わせませんから、なんらかのイメージに翻訳して表わす必要があります。
しかも、観客にサッと伝わりやすいイメージを使う必要があります。
こういう時に、髪の毛の乱れなどのイメージはよく使われます。
(音声セリフを使用できる現代のトーキー映画では、登場人物に胸の内を語らせたりして、もう少し多様な伝達ができます。)
つまり、「髪の毛の乱れ」➡髪を整える気持ちを失うような時➡心理的にあわてた時やストレスを受けている時……などという、通俗的かつ簡略化されたイメージ=心理状況=意味の連鎖をコード化して使用しているわけで、映画というものがコード化の束で出来上がっていることをよく表わしています。
これが、映画≠真実と見なすべき理由でもあります。
映画を見るということは、文化的コード化を使った多様な操作との戯れであり、騙されたり、罠を見抜いたり、感動したふりをしたり、時には実際に個人的にひそかに心を動かされてみたり、シーンの連鎖やストーリーを見ても何も信じず、それでいて架空の脳内環境の中で楽しんだりしてみる高度な遊びです。
ここで「通俗的かつ簡略化されたイメージ=心理状況=意味の連鎖」のコード化と言っている理由は、「髪の毛の乱れ」がいつも「心理的にあわてた時やストレスを受けている時」に直結するわけではないからです。
ファッションとしてわざと乱す場合もありますし、なにかに集中している時(=心理的にいつもより充実し、幸福感を感じている時)に「髪を整える気持ちを失うような時」もあるからです。
コード化を危険なものだと考えておかないといけないのは、こうした多様なニュアンスをつねに切り捨てることによってのみ成立する世界把握の方法だからです。
この点については、ちょっとコメントを加えておきましょう。
娯楽映画の場合には、こうしたコード化は、とりあえずの便利な手法ということで済みますが、映画だけでなく、社会の文化的なもののほとんどすべては、人間心理や外的イメージを粗雑に結びつけてコード化することで出来上がっています。
そうしたコード化の行為は、大枠のしくみを効率的に運営する際には便利ですが、細かな心理の複雑な部分などを無視することでしかコード化はできないので、配慮を欠いた過度の使用がなされていく場合には、人間社会の閉塞や抑圧をもたらしていくことになります。
こうした社会の病理の重大な症状は、映画、文芸、新聞・テレビなどの情報媒体、人々の世間話などに、つねに、はっきりと顕われ出てきます。
そうした文化現象を観察し続け、分析、批評することによってのみ、多少は、社会の最悪状態への進行を避けることができるかもしれません。
映画、文芸、新聞・テレビなどの情報媒体、人々の世間話などを批判的に観察することは、ふつうに思われている以上にはるかに重要なことですし、自分の中に強力な批判能力を養うこともきわめて重要です。
批判能力は、合理的思考と論理的思考(同時に、柔軟で見落としの少ない思考である必要があります)、物事を考える際の原典そのものの忍耐強い読解、現象そのものの観察などから作られ、一方、思考の運用のモデル(古典の多読から学ぶ他には方法はありません)をたくさん自分の中に入れることからのみ、“なんとか”形成されていきます。
小難しくなりすぎるのを避けるために、ふだんはあまり言いませんでしたが、こういう知の生成の現場で、ひとつのモデルケースとして、「小津安二郎」という現象も見てもらいたいと思っています。
正直なところ
ふだんの頭のなかは
こういった言語配列ばかりでいっぱいなので
ここから
自由詩形式や短詩形式へと跳躍して
花鳥風月!
を演じたりするのは
苦痛でしかない
社会も
いわゆる“文化”現象も
わたしの目には
どれほど
患者
や
解剖すべき死体
としか
見えないか!
それにだって
もう
飽き飽きなんだが……
私ァもう、全く世の中には飽きちまひました。(……)
早く歳を取つて芝居一ツ見たくない様になつて仕舞ひたい。
永井荷風『歓楽』
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