人類を滅ぼす最終兵器は
じつは
「多様性」信仰だろう
かつてレヴィ=ストロースが言ったように
文化は
偏狭さや閉鎖性によってのみ
守られる
多くの場合
これらは
伝統維持とか保守性などと
都合よく
言い換えられてきた
「多様性」は
文化が維持されるのに必要な
こうした偏狭さや閉鎖性を
じつに巧妙に
容易に
溶解していく
「平等」概念とすぐに繋がり
よき「差異」を保ちつつ
「差異」のあいだの「格差」を消滅させるかのようであるゆえに
一見
よいことであるかのような「多様性」概念は
ひとつの社会のなかに続いてきた生き方や暮らし方や価値観を
かならず破壊する方向へ進む
外出するのに
いくらかはよそ行きの服装をしていたのが
いつのまにかダラッとしたパジャマのような姿になるぐらいなら
まだいい
回転寿司屋でラーメンや焼肉が出てくるようになったぐらいなら
まだいい
しかし
いつのまにか
神社に十字架が立つようになったり
お茶漬けにコーヒーをかけるようになったり
天ぷらにソースをかけるようになったり
仏教の礼拝が朝鮮語になったりしていくだろう
学校では教室ごとに挨拶が異なった外国語になったりし
道路にそのまま尻を落して座るのがふつうになるだろう
書道は筆ペンどころかマジックペンになり
茶席での正座は膝に悪いということでむしろ禁止される
日本で日本語だけを使うのはおかしい
不平等だということになり
何語でもよくなってミニ翻訳機をだれもが持つことになり
茶碗や箸や緑茶もほかのものに置き換えるべきだとなり
たいていの場所では皿やスプーンやフォークになり
コーヒーや紅茶やコーラになる
「日本ではこういうやりかたをする」
といった発言は禁句となり
どんな場合でもどのようにやってもいいとされ
「わたしは明日そちらにうかがうことにします」と言えずとも
「わたしあしたあなた行く」でいいし
こっちのほうが学びやすいしわかりやすいとなって
古い日本語の言い方ダサイね
などと言われるようになる
これまでの文化をもし守りたいのならば
「多様性」が含み持つ我がまま性を誇張して利用し
つねに攻撃的にならねばならない
大日本帝国バンザイがどうしていけないの?
帯刀して外を歩いてどうしていけないの?
などとまわりに激しく言い続けて
なんでもありの風潮を逆手にとって自分の好むやりかたを
強硬にヴィジュアル化しないといけない
人類のなかに降りてきた妖怪のわたくしは
楽しんでしまう
日本文化や日本らしさなるものが溶けていくのも
朝鮮らしさや中国っぽさが溶けていくのも
ヨーロッパのゴシック建築が文字通り溶け去っていくのも
イスラムの美しい聖堂美術が剥がされていくのも
すべて
すべて
すべて
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