2024年2月23日金曜日

対象選択や差別が混ざり込めば「愛」はそこには絶対にない



 

いろいろと

人生の核心に触れるようなものを読むようになる

中学生の頃から

「愛」という言葉については

どんな態度を採るか

どんな理解をするか

二手に分かれる

 

近代以降の日本語の「愛」は

本来日本には存在しなかった雑な造語であり

歌謡曲や演歌に使われるような「愛しています」などという言い方は

もともと日本語の世界には存在しなかったので

「愛しています」などと口走る時点で

ひとは道を踏み外してしまう

 

わたしなどは

このように読み習ってきたので

映画や昼のよろめきドラマを見たりする時に連発される

「愛しています」なるセリフを

バッカじゃなかろうか

なにを芝居がかったこと平気で言ってるんだろう

などと

バカにし続けるばかりだった

 

明治時代にシェイクスピアを訳す時に

「愛しています」などと訳したくても訳しようがないので

「死んでもいいわ」と訳すことにした

というのは

坪内逍遙だったか

他のひとだったか

知らんけど

そんなふうに翻訳者が苦労してしまうほど

この国の言葉にとっては

「愛しています」は

異端の言葉だった

 

現代の通俗な物書きたちや軽佻浮薄男子や婦女子たちが言う

「愛しています」に該当する感情が

江戸時代までなかったわけではないのだが

それを「愛しています」とは表現せず

もともと仏教語では悪い意味での執着を意味する「愛」を

そこには用いなかったというだけのことで

それは未だに日本語環境内では

意味上の歪みをもたらし続けている

と見たほうがいい

 

こういった見方をまったくせずに

なんの違和感もなしに空気を吸ったり水を飲んだりするように

ぺろっと

「愛しています」

と口走れるやからがいるもので

これが二手のうちのもう片っぽうということになる

 

こういうやからは

モノやコトにも平気で「愛しています」を使えてしまうもので

「あたし、花見だんごフラペチーノ、愛しています」とか

「あたし、ルージュ・ホワイト・オペラ・フラペチーノ、愛しています」などと

息を吐くようにペロッと言ってしまえる

 

「愛」もライトに成り極まったものだが

もともと天上的なだから

ライト感についてはお得意中のお得意の「愛」なのだろう

 

「愛」については

いくらでも駄弁を弄していけるものだから

ここらで切り上げて

端的に指摘しておけば

現代の人界で使われる「愛しています」は

ようするに

「あなた」という特定対象を選択して執心します

執着します

しがみつきます

憑依します

といった意味だと思って間違いはない

憑依するほどの対象にめでたく認定されたのだから

ふだんは子猫よろしく愛玩してもらえる

猫かわいがりしてもらえる

しかし所詮は子猫なのだから

ほかのひとにもっと懐いたりしちゃったらコワイワヨなのである

紙一重でストーカーともなれば

毒親のようにもなる

 

「人類愛」とか

「愛こそがすべて」

などと言う時の「愛」は違うだろう

などと思うかもしれないが

そんなセリフを口走って

いわゆる「愛」を説くひとたちは

いったい

「愛」という単語でなにが言いたいのだろう?

 

やさしさ

おもいやり

助ける

保護してあげる

情けをかけてあげる

……などなど

いろいろと言い換えはあるのだろうけれど

それらの行為は

おそらく無限ではなくって

ここまでというリミットが必ずあって

「愛」という大言壮語ほどの大きさは伴われていないはずだ

「ホームレスに愛を」

「難民に愛を」

とかいいながらも

けっして

ひとりのホームレスさえ自宅に引き取って

朝昼晩の食事を上げたり

冬なら羽毛布団を買ってあげたり

毎日洗濯してきれいな服を着させてやったり

同行二人みたいな暮らし方をし続けていったりは

しないはずだ

 

リミットがあるなら

限界があるなら

境界線があるなら

線引きがあるなら

それは

「愛」でなんかない

 

ちょっと助ける

ちょっとお金をあげる

ちょっと声をかけてやる

程度のことで

「愛」なんていうスゲエ言葉を使うべきことではない

 

ただの

うそつき

じゃないの

あんたたちって

 

対象選択や差別が混ざり込めば

「愛」は

そこには絶対にない

 

したがって

選択や差別によって成立する人界でふつうに暮らすひとびとの間に

「愛」は存在し得ない

社会を捨て

人界を捨てなければ

「愛」を口にできる最低限の条件をも満たせない

 

いっさい選択なく

差別のないものとしての「愛」とはどんなものか?

比喩で示せば

あらゆるものに平等に注ぐ太陽光線であり

あらゆるものを平等に包む大気であり

あらゆるものを同条件で扱う存在であり

あらゆるものを同条件で扱う時間である

 

幸福を与えてくれるようにひとびとが祈る対象である神は

もちろん

「愛」ではない

自分に祈ったひとにだけ幸福を与えるような選択性を属性とする神

「愛」の基本条件から外れてしまう

 

しかるに

神は「愛」そのものなのであるから

ひとびとが祈りを捧げる対象であるような神は

その時点で

即座に

神ではないことが証明されてしまう

 

ほぼ100%の人類が

「愛」について誤っており

神について誤っているこの地球上で

もっともなすべきこと

もっとも容易なことは

「愛」という言葉を捨てることであり

神という言葉や観念を捨てることである

 

賛美や

感謝をなにかに向けたいのならば

太陽系や地球や生命や生成の唯一の源である太陽に向けるべきだろ

また

大気に

水に

存在に

時間に

祈りや礼拝をすべきであろう

 





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