人はみな有用の用を知りて、無用の用を知ることなし
荘子
詩を書いている
つもりになっている
ひとは
現代でも
けっこういる
詩は
音数律や
韻律が
生命なので
音声面での秩序がなければ
詩とは
いえない
近代詩で
よいものを作ったひとは
みな
短歌作りから
詩歌をはじめている
行数の多い
詩形式を作るようになっても
音数律や
韻律が
かれらの場合
しっかりと組まれている
たしかに
ランボーや
アポリネールが拓いた
自由詩という形式があるが
かれらだって
定型詩から始めた
アポリネールといえば
「ミラボー橋」がいい
などと嘯くひとがいるが
あれだって
しっかりと定型詩
だから
レオ・フェレなんかが
シャンソンにして
歌ってしまえる
ぼくは散文にしか
興味がなかったので
詩歌なんて
作ろうとも思わなかった
ある先生に呼ばれて
短歌作りに参加したのが
詩歌に関わったはじめ
数千人が所属するグループで
短歌の集まりの
いいところ悪いところ
ぜんぶにつき合った
その頃のこと
その世界の異様で淫らなことは
いずれたっぷり
散文に書くとして
よく会う歌人たちとは
短歌と詩について
議論もずいぶんした
詩なんてあんな長いもの
ひとりで書いたって
どうせ読まれないのにね
というのが
歌人たちのだいたいの考え方で
つねに他人の短歌とともに
まとめて印刷される
短歌世界の考え方としては
紙数も費やすし
ろくな内容でもないし
という現代の詩は
ただのムダごととしか
見えなかった
かつて詩を書いたという
歌人たちからは
自費出版のむかしの詩集を
いろいろともらったが
数ページ読んだだけで
みな捨ててしまった
歌人には自由詩は長すぎる
もっとツヅメろよ!
と叫びながら
添削しながら読むのに
疲れてしまうのだ
少ない語数でつねに切りつめて
省略と切り替えによって
緊張感を出したり
緊張感のなかで緩さも演出する
短歌の世界から見ると
最初の最初から弛緩し切った
甘えた形式としか
自由詩は見えなかった
詩の王者ボードレールにしても
みな韻律と音数律による
定型詩作者だったので
日本でいえば短歌を極めたわけだし
あるいは古風な
明治や大正の定型詩詩人の
位置づけだったといえる
もちろん
いまのぼくとしては
韻律と音数律という基本を
意味や印刷表記などで機能させる
意味律や表記律などが
あってもいいとは思っている
現代詩と呼ばれた一群の
イデオロギー集団の書きものには
それらの律が多用されていた
現代詩がもう古色蒼然としている
いまの時代にあっては
意味律や表記律などからさえも逸れた
無律のことば並べがあっても
いいものだろう
なんの規則性も考慮せず
過去の詩歌のありようにも
イデオロギー集団の現代詩のやりくちにも
忖度せず
ちょうどいまの時代が
戦後世代や団塊の世代をまるごと
捨てて無視し切っていくように
だだだだ単語を並べたり
でででで無意味したり
とにかく
文字が並んでいさえすれば
非実用
非伝達
非社会
(「社会」とはつねに支配者に隷属する体系でしかない)
でありさえすれば
詩
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