「民主主義」という言葉は
日本では
糸の切れた凧のようなもので
あっちにふらふら
こっちにふらふら
そうかと思えば
地面にずずずずず
という始末で
まあ
見るに堪えない
聞くに堪えない
政治学科でなくても
法学部卒なら
どこかで
「民主主義」の定義を出題されただろうし
他学部卒であっても
一般教養で
うんざりするほど
聞かされもしただろう
そもそも
王政や貴族政が
とうの昔になくなった国で
「民主主義」という言葉を
ことさらに連呼する意味はない
王や貴族による政治を阻止せよ!
という段階でなら
「民主主義」は意味もあろうが
上から下まで民しかいないことになっている国では
「民主主義!」などと叫ぶ必要性がない
民に属していないのは天皇家ぐらいだが
天皇家は政治行為を禁じられているのだから
天皇家に政治的に叛意を表明する必要もない
あえて言えば
日本国憲法による独裁体制に叛意を示すというのなら
まあ
わからないでもないが
文書である憲法をどう扱うかは
法学を超えた極めて困難な哲学的問題なので
これを
国民の総意だとか
民意の結晶だとか
選挙のたびごとの政党の歯の浮くような言葉並べで
するするとすべてが解決するかのような軽薄な態度は採らないほう
あらゆる憲法や法律は
それが起草されたのちの時代に生まれてきた国民ひとりひとりを
暴力的に勝手に拘束してしまう点では
それが持つ傾向や内容にかかわらず同じ構造を有している
憲法や法律が言う「我々」や「国民」は
起草以後に生まれてきた一個人の「私」を代弁できないし
代弁すると主張する権利もそこにはない
これは論理の基本中の基本であって
遅れて生まれてきた者が既存の法律に拘束されねばならない根拠は
根底から崩される
この論理を認めない場合には
さまざまな論理を練り上げていくあらゆる思考が不可能になる
「民主主義」を表わす「デモクラシー」には
ひとつの対立軸として
「アリストクラシー」ἀριστοκρατία(arist
もあるが
こちらは
「優れた人」を意味するἄριστος(aristos)
による支配を表わす
「優れた人」とは少数者である貴族のことで
「貴族制」とか「寡頭制」と訳されたりもする
そもそも
「デモクラシー」の発祥の地として
理想とされがちな古代ギリシアでは
δῆμος(dêmos)が「人民・民衆・大衆」を表わし
κράτος(kratos)が「権力・支配」
ふたつをあわせて
δημοκρατία(dēmokratía)とすることで
「民衆支配・民衆権力・大衆支配・大衆権力・人民支配・
などの訳語を当てられそうな意味が出来上がる
「デモクラシー」も
「民主主義」も
大元を辿ればここからしか来ていないので
もっとちゃんと訳せば
「民主主義」は
「大衆による支配を旨とする考え方」
「民衆による支配を旨とする考え方」
「人民による支配を旨とする考え方」
「大衆が権力を持つのがよいとする考え方」
「民衆が権力を持つのがよいとする考え方」
「人民が権力を持つのがよいとする考え方」
などとなり
もっと短くすれば
「大衆主義」
「民衆主義」
「人民主義」
などとなろう
この政治思想を毎週確認するのを目的とした雑誌の名には
どう見ても
「週刊大衆」などといった名がよさそうである
ならば
日本ではとうの昔に
「民主主義」なるものは実現され切っているではないか!
いやいや
まだまだ「アリストクラシー」の傾向が紛れ込んでいる
と危ぶむならば
それはむしろ
政治家業を祖父から父
父から孫へと
何代も続けていっているような家系こそ
それに当たるだろう
そういう政治家のいちばん多い政党は皮肉なことに自由民主党だが
そうなると
「民主主義」の最大の敵は自由民主党であることになる
ともあれ
「民主主義」などと訳さずに
ずばり
「大衆主義」と訳してみれば
ちょっと気の利く人なら
ヤベえな…
と感じるだろう
「大衆主義」の赴くところは
もちろん
「衆愚」
と決まっている
古代ギリシア以降
「デモクラシー」は
しっかりと「衆愚」したらしく
ローマでは
「デモクラシー」=「衆愚政治」
とされ
この名を使うのは避けられたらしい
「民主主義」
という政治体制においても
内容のレベルを上げようとするならば
民衆ひとりひとりを政治的に「優れた人」にせざるを得なくなり
それはつまり
「民主主義」の内部で「アリストクラシー」化を進めることになる
自己「アリストクラシー」化していくのでない限り
政治体制として価値を保持できない「民主主義」とは
はてはて
なんと矛盾に満ちた政体であることか
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