やや通俗ふうに書かれた小説『音楽』(1964)で三島由紀夫は
「言葉は何も証明しない」
と記していた
ミシェル・ド・セルトーの『文化の政治学』は
1980年出版だから
三島由紀夫からの遠い鼓動が及んでいた可能性もある
セルトーは次のように書いていて
1980年時点で明らかになっていた言語表現認識の状況を
凝縮して語り尽くしている
「二世紀にわたる言語の分析は次のことをあきらかにした。すなわち、言語はもはや物を表しもしなければ、現前をもたらしもせず、言語はもはや世界の透明性ではないこと、そうではなくて言語はさまざまな操作を可能にする組織化されたひとつの場所だということである。言語はみずからが語るものをあたえない。言語には存在が欠けている。だからこそ言語は操作することができるのである。存在の離脱からでてくる派生命題は、操作ということであり、言語はその操作の空間と対象を同時に提供している。」*
(4 暴力の言語 離-脱の文学)
1980年時点での言語観ではなく
言語というものの真実を剔抉しており
現代の言語表現も言語に関わるあらゆるリテラシーも
この言語観からしか始めることはできない
「おそらくこうした理由から、現代文化の特徴であるあの分割が生じているのにちがいない。科学の領域では、人工的で明瞭な言語が実践を分節している。いっぽう文学の圏域では、言語は物語を語るように運命づけられている。それは小説になっている。このような状況をもたらしたさまざまな原因とその段階についてくわしく語るよりも、むしろ文学生産にうかがわれるひとつの重たい事実をとりだしてみることにしよう。すなわち、徐々にこの言語-フィクションが暴力の仮面となり、道具となっているという事態である。
政治的言説は、みずからが依って立つ打算を語らずに、現に打算を行使している。イデオロギーは、擦りされて信じられないものになってしまった真理を飽きるほどくりかえしており、それでも諸制度はたえずこれらの真理を分配してそこから利益をひきだしている。コマーシャルは、生産主義的テクノクラシーが楽屋裏で組みたてている天国をはてしなくつぶやいている。マス・メディアは、シニフィアンの市場法則に従って、匿名の番組を国際化し、万人むきで誰のものでもない真実をながしているが、この市場ときては、番組制作者には限りない収益性をあたえ、観客には忘却しか提供しないようにできている。」*
紙上やモニター上の文字言語ばかりか
動画にかぶせて流される発話言語の増殖の時代にあっても
ここに示された明晰な分析は驚くばかりだろう
都市中心型社会に生きるあらゆる人間の意識を蝕む
広告言語や商品言語についての
このような言説もあわせて読み直しておこう
「商品としての言語は、自己が何の役にたっているかも語らないし、何が自己を規定しているのかも語らない。この言語は自己を規定しているものの効果なのである。それは暴力的なシステムの産物であり、このシステムは、文化という形態からみるかぎり、パロールには沈黙を強い、言語には際限のない増殖を強いながら、パロールと言語を切りはなしているのである。文化そのもののただなかにいかなる出口を見いだすべきか? 「沈黙への逃避」(マックパーソン)? 彼方には、希少なものへとたち返ってゆく共同体的営為があり、そうした共同体では出会いという実践がその共同体の始源のことばを取りもどし、シニフィアンの過剰生産がひきおこす失語症にたいしてゆきとどいた治療法を用意している。また他方で、文学という操作は、統辞論や語彙を破壊し、それらが抑圧しているものを暴露しようとしている。そればかりか、この文学操作はことばの夢幻的な使いかたを追求し、言い損ないや言葉の隙間といったもの、さらには「パロールの無力」(アルトー)を顕示しつつ、言語システムを横切り断ち切るものすべてを大切にしている。けれども、言語に加えられるこうした暴力は、言語の働きを指ししめしはしても、言語そのものを変えるわけではない。不条理なものから逃れ出ではしても、あいかわらずそれらは無力でありつづけている。」*
1980年頃までのポスト・モダン思想の流行の中での言説で
今となっては
「パロール」や「シニフィアン」という用語に読者は戸惑ってしまうだろうし
ふつう発話を意味する「パロール」が
どうして「言語」と対立するものとして語られているのか
よくわからない
となってしまうだろう
ここで言う「言語」とはおそらく
言語表現の体系とそれが産出する現象の総体を言っているのだろう
言い直せば
個人間でのコミュニケーション可能性をすでに溢れ出た
言語アウトプットのことで
「言語には際限のない増殖を強いながら」というのは
すでに受容限界を超えた言語アウトプットの奔流のことを言っている
もはや懐メロの言葉である「シニフィアン」は
受け取りかたによって多様な意味を産出できる表象のことであり
発話された言葉や文字で記された単語は
それが受けとられる時点でとりあえずは「シニフィアン」である
表象である「シニフィアン」の意味範囲を狭めて限定し
ひとつの意味として受けとった際に
「意味されるもの」なる「シニフィエ」が発生し
ふつうに言うところの言葉の意味となる
「フカイ」と発語されるのを聞いても
どういう意味を伝えようとする表象かわからず
多彩な意味作用に煌めく「シニフィアン」のままだが
これを「深い」「不快」「付会」「深井」「腐海」……などのいずれかで
捉えるように文脈上で指定されると
この「シニフィアン」がこの場面で伝達しようとする意味が特定され
それが「シニフィエ」となる
「文学という操作は、統辞論や語彙を破壊し、それらが抑圧しているものを暴露しようとしている。」
という部分は
文学や文芸と呼ばれる特定言語使用領域の定義として
見事なもので
本質と役割を言い尽くしている
「統辞論や語彙を破壊し、それらが抑圧しているものを暴露しようとし」ないのに文学や文芸と名乗ろうとする者は
偽善者や簒奪者
ないしはフェイクでしかない
「そればかりか、この文学操作はことばの夢幻的な使いかたを追求し、言い損ないや言葉の隙間といったもの、さらには「パロールの無力」(アルトー)を顕示しつつ、言語システムを横切り断ち切るものすべてを大切にしている。」
ここのところは
第二次大戦後の世界中の詩歌によって展開された活動
といえよう
日本のいわゆる現代詩の活動もここに終始する
しかし
こうした言語活動は
物理学でいえば素粒子論研究の最先端にあたるものであって
興味は持っても言語表現研究や実践に没入しうる素質のない一般人は
ほどなく離脱していく
科学と違ってエネルギーをたえず民衆からのみ吸う文学や文芸は
一般人の離脱がある一定量を超えた時点で衰退を始める
その後に発生するのは
日常言語と日常感覚とその時点での社会を浸す世界観を表わす
ライトな言語表現への傾斜であり
絶対王政下で独自の言語世界を展開したラ・フォンテーヌや
乱世に八方への批評精神を発揮した『宇治拾遺物語』の作者のような
社会情勢認識の希有の読解者にして
巧妙な技巧家で策士である文芸家でないかぎり
レベルを落さずに時代を突破することはできない
セルトーは
こうも書いている
「ヘーゲルは十八世紀の文化に似たような状況を診てとっていた。かれによれば、当時の言説の語る内容とは、『あらゆる概念とあらゆる現実の腐敗であり』すなわち『自己自身と他者にたいする普遍的欺瞞である』。現代では事情がちがってきている。というのも、それは欺瞞だと言えるための真実がもはや存在してないからである。だます可能性そのものが消え失せているのだ。いったい誰が誰をだますのか? 実際、例をあげて言えば、視聴者は舞台にだまされているわけではないのだが、それを口に出して言わないのである。かれはただ、テレビをつけるという行為をやるだけだ。次々とオブジェを繰り出してきては信用を下げてゆく画像の数々を前にして、視聴者は受動的であるかもしれないが、だからといって自分の受動性がわかっていないわけでもないのである。かれは意志表示をしないのだ。だから『舞台』の制作者たちは、シニフィアンが欲求を生みだすといいつつ、そのシニフィアンを売りこむ当の相手を把握していないのである。けれどもかれら制作者たちとて、われとわが生産物を手中にしているわけではない。かれらは市場法則に従っているだけである。発信者も受信者も不在のまま、この言語は二者のあいだで勝手に自己のロジックをくりひろげていっている。かつてはさまざまな立場がいれかわり、たがいにだましあっていた空間を、どちらでもない中立者が占めている。腐敗の文学の後を離脱の文学が継いだのである。」*
「欺瞞だと言えるための真実がもはや存在してない」状況は
現代において
ますます極まってきているだろう
「制作者たちとて、われとわが生産物を手中にしているわけではない。かれらは市場法則に従っているだけである。発信者も受信者も不在のまま、この言語は二者のあいだで勝手に自己のロジックをくりひろげていっている。」
というのも鋭い指摘で
市場言語のロジックが現代のリヴァイアサンとして
とうの昔に立ち上がってきていた
市場言語のロジックを
「スコラ学派」とでも言い換えてみれば
トマス・ホッブスは
驚くほど
われわれの身近に立っている
「ある人々の論究の中には、さらにもうひとつの欠陥がある。それもまた、狂乱の種類のうちに数えられてよかろう。
それは語の悪用ということである。
このことについては、先の第五章で背理という名辞で述べておいた。いっしょにされるとそれら自体ではなんの意味も持たなくなるような言葉を語る場合がそれである。
ある人々は、そうした言葉を受けとっては機械的にくり返すが、それによって誤解が発生する。他の人々は、曖昧さによって騙そうという意図から、こうした言葉の使用を思いつく。
こうしたことは、スコラ学派の人々のように、理解しえないことがらについての諸問題や深遠な哲学の諸問題について会話する人々にこそ起こりやすい。ふつうの人々なら、めったに意味をなさないことは話さないのだが、それゆえに、スコラ学派の人々のような、いわゆる“優れた”人々から、白痴とみなされたりする。
ところが、スコラ学派の人々のような、いわゆる“優れた”人々の言葉は、じつは精神の中になにも対応するものを持っていない。このことを確信するには、なるほど、若干の実例が必要であろう。
もし誰かがそれを求めるならば、スコラ学者の著作を取り上げて、三位一体、神性、キリストの本性、化体、自由意志などのような困難な論点に関する一節を、理解しやすいように近代言語のどれかに翻訳したり、あるいは、ラテン語が俗語であった時に生きていた人々が親しんでいたような、我慢できる程度のわかりやすさのラテン語に翻訳できるかどうか、見てみればよい。
たとえば、次の一節はどう理解したらいいだろうか。
『第一原因は、かならずしも、第二原因の本質的従属によって、なにものかを第二原因にそそぎこんで、それによって、それが働くのを助けるのではない。』
これは、スアレスの最初の著書『神の協力と運動と援助』の第六章の表題の翻訳である。
著書の全巻をこのようなぐあいに書き上げる場合、著者は狂乱しているか、他人を狂わせることを意図しているのではないか。
特に化体の問題においてなどは傑作である。ひとくさり語られた後、著者は、白さ、丸さ、大きさ、質性、可腐敗性など、すべて無形incorporeall のものが聖餅から出て、われわれの祝福された救世主の身体として移行する、と語るのだが、著者はこれらの“何々らしさ”や“何々性” Nesses, Tudes, and Ties を、救世主の身体に取りついていた数々の霊とでも見なしているのであろうか。というのも、それらは霊であるゆえにつねに無形であり、かつ、ひとつの場所から他の場所へ移動しうるものとされているからである。」**
現代においても
われわれは
スコラ学派型言語使用ロジックと
避けようもなく
戦うのを強いられている
ということか
*ミシェル・ド・セルトー『文化の政治学』(山田登世子訳、岩波書店、1990)。引用箇所はpp.93-95。
(Michel de Certeau 《La Culture au Pluriel》, Christian Bourgois Editeur, 1980)
**トマス・ホッブス『リヴァイアサン』の「第一部《人間について》 第八章《ふつうに知的とよばれる諸特性と、それらと反対の諸欠陥について》。岩波文庫の水田洋訳のpp.140-141にかなり手を入れた。
(Thomas Hobbes : LEVIATHAN)
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