買い物の帰りに雨がひどくなったが
ずぶ濡れにならないぎりぎりのところで
うちに帰りついてよかったなァと
詩のように分かち書きで記しておこうと思うのは
こんなことも日本人として生きている間しか
できない貴重な経験だからこそ
死んだら
日本人でさえなくなっちゃう
日本語を読んだり
書いたりも
できなくなっちゃう
すべて
日本人として
生きているうちだけのこと
忘れられがちだけれどね
ならば無味乾燥なお役所ふう文書なんかより
軽佻浮薄な雑誌や新聞より
形式ばっているだけの論文より
日本語の華である詩歌や古典を読んだほうが
よっぽどいいと思う
どんな言葉とつき合うのにも
同じだけ時間が浪費されるのだから
美しい言葉
おいしい言葉と
つき合うのに使ったほうがいいと思う
福田恒存が人づきあいについて
こんなことを言っていた
「他人とつきあふといふことは
「自己のうちの一部を相手に売り渡すことでしかなく
「その相手が自分以下の人間であるならば
「それだけ自分のうちに
「くだらぬ自己をもつことになる
(『近代の宿命』)
さぁ、どうかな
特に「自分以下の人間」だと
他人を簡単に判断するなんて
アブナイなぁ、
アブナイねぇ、
思考法においてオッチョコチョイじゃないかネ
と思うけれど
とはいうものの
いのちと同質であるはずの「時間」という器に
なにを入れるか
なにを入れないか
と考えれば
ようするに選択の問題になるから
言葉とおなじ話になるかな
いっしょにいて
おいしい人
いっしょにいて
美しい気分にさせてくれる人
そう、
いのちは「時間」でしかない
いのちは「時間」そのもの
あと数十時間
あと数百時間で
わたし
死ぬことになっているので…
と思えば
その人に会うかな?
その言葉を読むかな?
書くかな?
きびしい問いだよね
本当は
毎瞬毎瞬
問われ続けている
問い
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