2015年6月5日金曜日

本当は毎瞬毎瞬問われ続けている問い



買い物の帰りに雨がひどくなったが
ずぶ濡れにならないぎりぎりのところで
うちに帰りついてよかったなァと
詩のように分かち書きで記しておこうと思うのは
こんなことも日本人として生きている間しか
できない貴重な経験だからこそ

死んだら
日本人でさえなくなっちゃう
日本語を読んだり
書いたりも
できなくなっちゃう

すべて
日本人として
生きているうちだけのこと

忘れられがちだけれどね

ならば無味乾燥なお役所ふう文書なんかより
軽佻浮薄な雑誌や新聞より
形式ばっているだけの論文より
日本語の華である詩歌や古典を読んだほうが
よっぽどいいと思う
どんな言葉とつき合うのにも
同じだけ時間が浪費されるのだから
美しい言葉
おいしい言葉と
つき合うのに使ったほうがいいと思う

福田恒存が人づきあいについて
こんなことを言っていた
「他人とつきあふといふことは
「自己のうちの一部を相手に売り渡すことでしかなく
「その相手が自分以下の人間であるならば
「それだけ自分のうちに
「くだらぬ自己をもつことになる
(『近代の宿命』)

さぁ、どうかな
特に「自分以下の人間」だと
他人を簡単に判断するなんて
アブナイなぁ、
アブナイねぇ、
思考法においてオッチョコチョイじゃないかネ
と思うけれど

とはいうものの
いのちと同質であるはずの「時間」という器に
なにを入れるか
なにを入れないか
と考えれば
ようするに選択の問題になるから
言葉とおなじ話になるかな
いっしょにいて
おいしい人
いっしょにいて
美しい気分にさせてくれる人

そう、
いのちは「時間」でしかない
いのちは「時間」そのもの

あと数十時間
あと数百時間で
わたし
死ぬことになっているので…
と思えば
その人に会うかな?
その言葉を読むかな?
書くかな?

きびしい問いだよね
本当は
毎瞬毎瞬
問われ続けている
問い



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