2021年6月16日水曜日

けっこう好きである

 

昔から思っているのだが

老子も馬鹿ならば

老子をネタにして解説本を書くような学者も

すこぶる馬鹿である

 

茶碗が茶碗として役立つのは

中が空虚だからだ

などという無の優位説を

なにかというと持ち出したりするが

茶碗の中が空いているのは

まさに茶碗として作られているからのことであって

中が無などでは全くなく

中に茶碗として必要とされる性質がまさに有り

茶碗性が充溢しているからである

ぜんぜん無でなどないのだ

 

そもそも茶碗の中なるものは

茶碗の核心でもあれば物を支える外部でもあって

全く欠けてもいなければ

そこに空無と呼ぶべきなにものもない

 

下手で不十分な発想をするのが老子の悪いところで

それをまたご大層に有り難がるのが

老子で喰っていこうという後世の学者たちである

 

まあ

老子の奴

詩人ではあるから

若者は騙されたりする

 

たいしたこと

結局

言ってなかったんだなあ

老人が暇つぶしに見直したりするのには

悪くないかもしれない

 

こんなことを言って

世の道学センセに馬鹿にされたり

哀れまれたりするのって

わたし

けっこう

好きである




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