昔から思っているのだが
老子も馬鹿ならば
老子をネタにして解説本を書くような学者も
すこぶる馬鹿である
茶碗が茶碗として役立つのは
中が空虚だからだ
などという無の優位説を
なにかというと持ち出したりするが
茶碗の中が空いているのは
まさに茶碗として作られているからのことであって
中が無などでは全くなく
中に茶碗として必要とされる性質がまさに有り
茶碗性が充溢しているからである
ぜんぜん無でなどないのだ
そもそも茶碗の中なるものは
茶碗の核心でもあれば物を支える外部でもあって
全く欠けてもいなければ
そこに空無と呼ぶべきなにものもない
下手で不十分な発想をするのが老子の悪いところで
それをまたご大層に有り難がるのが
老子で喰っていこうという後世の学者たちである
まあ
老子の奴
詩人ではあるから
若者は騙されたりする
たいしたこと
結局
言ってなかったんだなあ
と
老人が暇つぶしに見直したりするのには
悪くないかもしれない
こんなことを言って
世の道学センセに馬鹿にされたり
哀れまれたりするのって
わたし
けっこう
好きである
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