2024年3月27日水曜日

“念”

 

  

 

優れたとか強いとか、そういう言葉に取り憑かれたのです。

餓鬼道に落ちた者が、いつも飢えに苦しんでいるように、

あなた達は、食物よりもっと不確かな実体の無い物に取り憑かれ、

いつも飢えて苦しんでいるんですよ。

篠田節子 『聖域』

 

 

 

 

だれもが(小さな自己顕示欲を満たすために)使う

FacebookXInstagramをわたしも使っている

すでに投稿数は7万や8万を超えているから

かなりたくさん利用しているともいえる

 

けれどもわたしには顕示する自己はないし

ごくごく若かった愚かな頃と違って今は自己顕示欲もないので

FacebookXInstagramの使い方は

じつは一般的な自我の幼稚園園庭のようなものではない

 

ずいぶんたくさんの写真をそれらには載せているけれども

ほとんどの場合どれもこれもオリジナルな自作物ではなく

だれでもネット上で見つけられる公開写真にすぎない

FacebookX/XFacebookというだけの操作が多い

 

自己表現とかオリジナリティとか創作に取り憑かれている人には

なにを愚かな無価値なことをしているのかと思われるだろう

物質的創造行為をしていないしオリジナリティもないので

マルセル・デュシャン以前の自己表現概念に冷酷なのがわたしのSNSだ

 

しかしわたしにはこのやり方がすさまじく役に立っている

わたしが体験し続けたいのは二次元の色彩とかたちを見るということで

電子的なかたちで写真や絵画を扱い続けることによって

色彩体験とかたち体験をかさばらないスマートなやり方で日々行え

 

この地上世界のほとんどのことがわたしの興味をまったく惹かない

色彩とかたちを見続けることはかろうじて未だ気に入り続けている

美術館に行ったり展覧会に行ったり海や山や高原に出かけたりして

さまざまな色彩を網膜上に映してくるのももちろんよいし続けてい

 

とはいえ現代ならではのタブレットやスマホなどのモニター使用による

いかにも簡便な疲れの少ない色彩体験やかたち体験は

まさにこの2000年代に生きていればこその得がたいものと思え

画集集めや切手集めや美術館めぐりの未来的な日常の中に生きてい

 

わたしがSNSに載せる写真の数々は多くが花や海や雲などのものだが

自己表現とかオリジナリティとか創作に憑かれた人々には

美術的なセンスの低い通俗的な図柄と見えるものも多く載せている

しかしわたしの関心が色彩とかたちにしかないのでそれでよい

 

逆になんらかの意図を濃く込めていたりメッセージ性が強いものは

どんなに美しく見えるものでも載せない場合が多い

意図やメッセージがうるさく醜くて図像としての純度が損われてしまう

せっかくの色彩やかたちの妙がよけいな思念によって邪魔されてしまう


 何が嫌いと言って人の意見や考えや夢や希望や感情ほど嫌いなものはない

美術も写真も音楽もインテリアも建築もせっかくそうした醜いもの

排除して成立しうる世界であるのだからつまらない“念”を込めないでほしい

込められた“念”はなんであれ怨念になり邪念になり因縁を生んでいく

 

人間のよけいな“念”を削ぎ落とした色彩やかたちをこそ存分に

美術・写真・音楽・インテリア・建築・ファッションでは発揮してほしい

人間的であることとよけいな“念”に憑依され続けていることは全く違う

逆に“念”こそが人間性をつねに損い世を危うくするものだと悟ってほしい

 

 




0 件のコメント: