アンソニー・ホプキンスが主演した『ゼロ・コンタクト』(202
面白いとも面白くないともいえる映画で
人に勧めるには少し躊躇される
これを面白く見られる人は
その人なりの視点から
たいていの映画やフィクションを面白く見られるはずで
多層的構造的に作り込まれたフィクションの見巧者といえる
https://www.youtube.com/watch?
映画の宣伝文句には
ゼロ・コンタクト
それは人類の脅威
5人に遺されたパスコード
それは地球を救う鍵か、それとも破滅か
残り時間は60分
運命の決断が迫られる
遺された極秘プロジェクト「クオンティニュアム」の全貌とは?
名優アンソニー・ホプキンス他、豪華キャスト陣で放つ、
衝撃のS
とあり
これだけを読むと面白そうだが
例の世界規模でのコロナ詐欺時代に
(例のmRNAワクチンとやらは
すでに生物兵器として暴かれているので
今だにまだあれを信じている輩はただの情弱であり
打った連中は人間とは呼べないほどの馬鹿である。
早々に打ってきましたーなどとSNSに出していた連中がいるが
アホども!はやく死ね!と思いながら
彼らの奇妙な承認欲求露呈のむごたらしさを楽しんだものだ…)
ネット通信のみで作成した映画であるためか
映画を面白く見させる動きやストーリー編集には限界があり
アンソニー・ホプキンスを除けば
俳優たちは長く見ていたいような顔や姿ではなく
映像的な魅力にひどく欠ける
人間の外貌というのは残酷なもので
やはり
長く何度も見続けていたいような顔や姿と
そうでないものとの差は歴然とあり
一定時間のあいだ視野を拘束される映画という拷問装置では
魅力のある外貌の俳優たちとそうでない俳優たちとでは
映画がこちらに投じてくる効果の差は大きくなる
映画内ストーリーの関係上
何人かのさほど魅力のない顔を
モニター越しに正面から見させられ続けるというのは
味気なく不愉快で
ダメな料理を咀嚼して飲み込まねばならない時間を
延々と強いられるようなものである
宣伝用のあらすじはこのようになっている
テクノロジーの界の巨人フィンリー・ハート。
野心に溢れたカリスマだったが、
一方、ひとり息子のサムは、
多忙な父フィンリーと関わることなく人生を歩んできた。
ある日、サムとかつてフィンリーの側近として働いていた4人が
招
フィンリーが独自で開発を進めていたプロジェクト
「
の再起動をするためだ。
しかし、それは人類に危機を及ぼすと判断され、
フィンリーの失墜の原因でもあった。
また、再起動をするためには、
5人それぞれに遺されたパスコードを
60分以内に入力しなければならなかった。
それぞれが逡巡する中、
メンバーの1人が何者かに殺害されてしまう……。
映画を見ていく間に
こうした内容が非常に把握しづらいのが
この映画のいちばんの問題で
はたして
「クオンティニュアム」
それとも
「クオンティニュアム」の暴走を止めることが焦点なのか
よほど注意して見ていないと
そのあたりから曖昧になってしまう
こんな『ゼロ・コンタクト』ではあるが
ひとつだけ
決定的な価値を有している
それは
すでに現代において
地球上のあらゆる人間が
あらゆる時間
あらゆる場所において
前後左右上下からの完全監視がなされ続けている状態だ
ということの
非常にリアルな気づきを与えてくれる
ことだ
スマートフォンが
電源が切られていても
周辺を撮影し録音してデーター送信していることは
すでによく知られているが
これはパソコンも同じことであり
街に出たり
建造物内に入れば
四方八方に設置された監視カメラで
ほぼ100%監視下に置かれているのも
いまでは常識だろう
近くにスマートフォンもパソコンもなく
街に出てもおらず
建造物といっても自宅の中の
なんの隠しカメラも隠しマイクもなさそうなところならば
監視の目からは逃れられているはずだ
と思いがちだが
スマートフォンやパソコンは
それが常時発している電磁波によって
かなりの広範囲にわたって監視場を形成しており
ある監視場と別の監視場は
協調しあって人体反応や物質反応を受けとめ続けるため
ここから取得できる情報を解析できる装置があれば
ほぼ映像化して再現できる
隠しカメラも隠しマイクもないはずの
トイレの個室の中やクローゼットの中ならば
監視を逃れられるはずだと思うのも間違いで
住居内にある配電網が作り出している電磁場は
そうした場所の人体情報も把捉している
ある電磁場によって把捉されれば
そこから電流によって情報は流れるので
宇宙衛星からそれらの電磁場にアクセスして情報を取り
それを映像化する装置にかければ
たとえトイレの個室の中やクローゼットの中であっても
ひとつの人体の行動はありありと捉えられる
どうしても正確に情報を取れない場所にいても
ある地点で捉えられた情報と別の地点で捉えられた情報のあいだを
その人物の行動傾向を方程式化してそれを読み込ませる操作を施せ
かりに事実そのものではなくても
かなり近似した行動軌跡が図式化され
さらには映像化されうる
こういう完全監視状態のなかで
個々人は「自由」を賭けてどう生きたらいいのか?
などという問いは
それ自体がすでに愚問でしかなく
もはや
監視を逃れうる方法はなく
個人の「自由」などはなく
したがって
この地上では
「私」はあらゆる点で監視され誘導されていく家畜でしか
絶対にあり得ない
という認識に
まずは正直に立つところからしか
生
はあり得ない
と考えておくべきだろう
もともと
かつては「自由」があった
かつては「人間的な」暮らし方があった
という認識自体が誤認であり
人間はいつの時代にもどこにおいてでも
家畜でしかなかったと
考え直しておくべきである
そんなことはない
と
のんきにユートピア的に夢見たがるのは「自由」だが
そんな人でも
つねに
肉体反応の家畜であったし
欲望や欲求の家畜であったし
価値の家畜であったし
なによりも
現状よりもっとよいなにかがあり得る
などと思いたがる心性の家畜であったし
表象や言語に載せた瞬間に
ありのままの生情報を正確に反映できているかのような裏付けが
じつは
なくなってしまうものでしかない
表象知や言語知を
いかにも非科学的にあり難がってしまう
家畜であった
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