経済学者の水野和夫の
『資本主義と不自由』*を読んでいたら
第2章「合理主義は限界に達したのか」の中に
こんなところがあった
ベーコンが生まれたイギリスは、蒸気機関車が誕生した、
思想史やヨーロッパ史を学んでいる人たちなら
唖然として言葉が出てこなくなるようなトンデモ記述であるけれど
データー面で誰が見てもすぐに誤りとわかるのは
なんといっても
「ニーチェ、カント、ヘーゲルという偉大な哲学者が
フランス革命の少し前の一九世紀前半ぐらいに
登場することになりました」
というところだろう
いったい
どうしてしまったのか?
仮にバイトで雇った学生に原稿を書かせたのだとしても
これが東洋英和女学院大学院での講義だったのだから
自分で読みあげているはずであり
それならば誤りに気づいてもよさそうなところだ
大きな誤りが二箇所ある
「フランス革命の少し前の一九世紀前半ぐらいに」
と書いているが
ふつうに「フランス革命」と呼びならわされている
あの「フランス革命」は
真の開始時期も終幕時期も諸説あるものの
いちおう1789年から1795年とされているので
もちろん18世紀末である
それを
「フランス革命の少し前の一九世紀前半ぐらいに」
と書いてしまうのは
「フランス革命の少し後の一九世紀前半ぐらいに」
とすべきものを書き間違えてしまったのだろうか?
そのようなこともあるにはあるので
つまらないところを突いてケチな批判をするようなことは
したくないのだが
これは文系や社会科学系では
たとえ泥酔して書いても誤ってはならない基本中の基本知識なので
法政大学の経済学教授が書き誤ることは許されない
もうひとつの誤りは
「ニーチェ、カント、ヘーゲル」が
「一九世紀前半ぐらいに登場」と言っているところ
1831年に死んだヘーゲルの活動時期を
「一九世紀前半」
というのはいいとしても
カントは18世紀中期から後期とすべきだろうし
ワーグナーという怪物と格闘したニーチェにいたっては
典型的な19世紀後半の人間である
ちなみに
彼らの生没年を記しておくと
こうなる
カント 1724年―1804年
ヘーゲル 1770年―1831年
ニーチェ 1844年―1900年
これらは
「世界史」や「現代社会」などを学ばされた高校生たちの
教養というより
クイズ遊びの領域の話であり
こうした人物たちのだいたいの生没時期が頭に入っていないと
ヨーロッパ史の風景は絶対に見えてこない
これらふたつの間違いを飲み込みつつ読んでみると
水野和夫は
「ニーチェ、カント、ヘーゲル」が「一九世紀前半ぐらいに登場」
なんと
その後に「フランス革命」が起こる
と大学院で講義しているわけで
このぶっ飛び度は
やはり
ただ事ではない
この人は
あきらかに
「ニーチェ、カント、ヘーゲル」の原典を読んでいない
もし読んでいたら
理解するための必要上
ヨーロッパ哲学の思想の流れを知るために
他の多くの哲学者の本にも当たらざるを得ず
そうするうちに
どうしても
おのずと頭のなかにそれなりの年表は出来上がってくる
フランス革命という巨大過ぎる出来事と
これら哲学者たちとの関係も
時代的な相互の距離感も
どうしても強く意識せざるを得なくなる
カントはともかく
ヘーゲルやニーチェを
フランス革命研究なしに読むことは不可能であり
そのためには厖大な時間を費やさねばならないことにもなり
やはりおのずと
意識にいろいろな記憶が刻まれていくことになる
なので
「ニーチェ、カント、ヘーゲルという偉大な哲学者が
フランス革命の少し前の一九世紀前半ぐらいに
登場することになりました」
などという記述は
あえて人を食った冗談をかましてやろうとでも思わないかぎり
どうしてもできなくなってしまうはずなのだ
文の前半もすさまじい
イギリスは「産業革命発祥の地」➡だから「進歩と言えば技術」
ドイツは「国民国家統一でおくれを取ってい」た
➡だから「精神的な進歩を重視する方向へ向か」った
➡「この結果として」「ドイツで」「ニーチェ、カント、
よほどレベルの低い大学でなければ
ヨーロッパ史の先生は
こういうストーリーを提示してくる学生の答案に
あまりいい点は付けないだろう
イギリスの哲学への視点の欠落も甚だしい
ホッブスやロックやバークリーは確かにちょっと古くなるだろうが
18世紀の大哲学者ヒュームは無視できないだろうし
カントとヘーゲルの間の時期に生まれ
ヘーゲルと一年差で没するイギリスのベンサムや
その後を継ぐスチュアート・ミルも無視できるわけがないし
「国民国家統一」で遅れをとったから
「精神的な進歩」へと国のエネルギーは傾くといった見方は
噴飯ものでしかないだろう
本当に
ケチなちっちゃな過ちをとらえて
あまりに心の狭く見えるような批判をしてみたいわけではない
とはいえ
大学院レベル以上の論文では
こんなちっちゃな過ちに猛然と攻撃の矢は降りかかる
そういう矢のおかげで修士論文の評価を下げられた人たちを知って
博士課程に受け入れてもらえなかった人たちも
何人か知っている
そんな過ちを教授がやっていては話にならないだろう
とは
やはり
言っておきたくなる
*水野和夫 『資本主義と不自由』 (河出文庫、2023)
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