人生のほんとうの師
世界観のほんとうの導き手を
お探しか?
薄い思いつき思考や
借りもの言葉の
あまりに浪費され続ける
なんでも
安易に見つかりそうな
この末世で?
それならば
このような諭し手は
いかがか?
紀元前369年―286年の
荘子の言葉である
これに比べたら
紀元後21世紀は
なんとけちな
ちっぽけな
せせこましい自称“教え”に
溢れかえっている
ことか
天地は大きな美徳を持ちながら、何もいわない。
四季の運行は明らかな規律を持ちながら、
ことさらあげつらいもしない。
万物にはきまった理法が備わりながら、
説明を加えもしない。
聖人は、この天地自然の美徳にもとづいて、
万物の理法に通達する。
だから、至人は人為の営みをせず、
偉大な聖人は作為を弄しない。
天地自然のあり方をよく見きわめようとすれば
こうなる。
いま
かの霊妙な道のはたらきはこよなく精徴で、
万物とともにさまざまに変化する。
万物は
あるいは生まれ、あるいは死に、
円いかたちもあれば、四角いかたちもある。
そのように多様で、
そのはたらきの根源は
われわれの知力の及ばないところにある。
だが、万物は勢いさかんに、大昔から今日に至るまで
絶えることなく存在している。
宇宙がいかに広大であろうと、
この道の範疇からはずれることはなく、
秋の獣の毛先ほどの微小な存在でも、
道のはたらきがあってこそかたちを成す。
この世界に存する一切のものは
みな
浮き沈みをくり返して、
終生旧態をとどめず、
陰陽と四季は秩序正しく運行して、
おのがじし規律を保っている。
道は曖昧模糊として何もないようでいて
たしかに実在し、
とりとめなく形も定かでないようでいて
霊妙な作用を発揮し、
万物はその力によって養われながら、
それに気づかずにいる。
これこそが
一切存在の根源と呼ばれるものであり、
これは
天地自然のいとなみの中に
観て取ることができる。
天地有大美而不言。
四時有明法而不議。
萬物有成理而不說。
聖人者。
原天地之美一物之理。
是故至人無為。
大聖不作。
觀於天地之謂也。
今彼神明至精。
與彼百化。
物已死生方園。
莫知共根也。
扁然而萬物。
自古以固存。
六合為巨。
未離其内。
秋豪為小。
待之成體。
天下莫不沈浮。
終身不故。
陰陽四時。
運行各得其序。
惛然若亡而存。
油然不形而神。
萬物畜而不知。
此之謂本根。
可以觀於天矣。
『荘子』 知北遊篇第二十二・二
同じ「知北遊篇第二十二」にある
師である丞が
舜に答えた内容も
加えておこう
そなたの身体は
天地自然から委ねられたかりそめの形である。
生命にしても
そなたのものではなくて
天地自然に委ねられたかりそめの和合だ。
本性にしても
そなたのものではなくて
天地自然の委ねた
かりそめの運命なのだ。
子どもや孫にしても
そなたのものではなくて
天地自然の委託による
ぬけがらのようなもの。
それだから
人が歩くにしても
どこへ行くとはっきり分かっているわけではなく
じっとしていても
なぜそうしているかわかっているわけではない。
なにかを食べても
ものの味がわかっているわけではない。
すべては
ただ
天地の間をめぐる気のいとなみによって
生ずることだ。
それを
どうして
自分のものにできようか。
是天地之委形也。
生非汝有。
是天地之委和也。
性命非汝有。
是天地之委順也。
孫子非汝有。
是天地之委蜕也。
故行不知所往。
處不知所持。
食不知所味。
天地之彊陽氣也。
又胡可得而有邪。
『荘子』 知北遊篇第二十二・四
*引用箇所の訳は、福永光司+與膳宏訳のちくま学芸文庫『荘子』
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