その簡易なカフェはホテルの1階にあり
外の舗道からも
ホテルの中からも入って来れる
ホテルには劇場もいくつかあり
歌舞伎専用の劇場も
ほかの伝統芸能用の小劇場もある
暗めの木のテーブルが並ぶだけで
装飾のほとんどない
ミニマルな内装のそのカフェは
1階にあるほかのレストランやカフェと比べ
穴場のような存在で
いつ行っても
それほど客はいない
雨の夕方
わたしはそのカフェに入り
バッグに入れていたミネラルウォーターを飲んで
すこし考えごとをしたり
ぼんやりしたりしていた
コーヒーなどを頼まなくても
好きに座っていてかまわないのが
このカフェでもある
急に入ってきた客があって
すこし離れたテーブルに付き
手に持ってきた赤ワインを口に運び
そのまま口飲みし始めた
知った顔だと思ったら
坂東玉三郎だった
カフェの近くにある売店で
うまいワインが1000円で売っているので
それを買って来て
ここでちょっと座って
何口か飲んでいくつもりなのだろう
このカフェでは
こんなことも許される
それにしても
口飲みするとは
ずいぶんくつろいだ所作だ
玉三郎は
暗めの店内の隅や
天井に視線をやりながら
ミネラルウォーターでも飲むように
ゆったりとワインを飲みながら
なにやら
もの思いでもしている様子だ
しばらくすると
他の席に
赤ワインのボトルを手に持った
また別の男が付いた
名前は知らないが
これもよく見る俳優で
やはり
ワインを口飲みし始めた
玉三郎に
黙礼したようにも見えるが
わたしの見間違いかも知れない
口飲みでも
この飾り気ない静かなカフェでは
いかにもふさわしい感じで
わたしも一本
近くの売店で買ってきて
ワインを何口か
飲もうかと思った
思ったが
一本
ぜんぶを飲みきれるほど
この後
暇ではないし
すこし酔ったからだで
雨の中を帰りたいとも思わない
玉三郎も
もうひとりの俳優も
仕事が終わって
後は帰るだけというタイミングで
何口か
反省しながら
飲んでいるのだろう
わたしのほうは
ワインは
また
この次に此処に来た時に
しよう
大きな窓の外では
舗道に打ちつける雨が
いっそう激しくなってきた
いつのまにか点いた街灯が
雨の世界を
オレンジ色に染めて
街というものの美しさを演出している
暗く静かなカフェの中では
玉三郎や
もうひとりの俳優が
ときどきワインを口飲みし続けながら
今日の演技の反省をしたり
ほかのことを思ったりし続けている
もう少し
静かで暗めの
この落ち着きの中にいてから
オレンジ色に染まった
雨の中へ出ていくことに
わたしは
しよう
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