2025年9月28日日曜日

過去のなさを ただ「無い」ことを 「価値」のなさを


 

 

スプーティーが問う、

「あなたがたは、自分の(求道の)目的を達しましたか」

比丘たちが答える、

「(目的を達するというようなことはありません。)

目的というものはありえないのですから」

『宝積経』(Ratnakūa Sūtra

長尾雅人・荒巻典俊訳

 

 

 


 

 

「価値」というものは

物そのものを別尺度に変換して扱おうとすることで

つくづく罪深いものと思う

 

ある物に「価値」がある

とか

「価値」がない

とか

平気で思うようなならわしの中に

人は生まれ落ちて

あたり前に

「価値」という考え方や言葉に馴染んでしまうが

「価値」があろうが

なかろうが

その物はその物であり

そういうありかたをしているわけで

その物のありようの側から言えば

他から判定される「価値」の有る無しはどうでもよい

「価値」はつねに

他から見ての

その物の本質や実情以外のもののための使い道の有る無しであり

もともと

そして

どこまでも

疎外でしかない

 

もちろん

あらゆる「価値」論を排除するべきだ

と思うのではない

 

乗りたい電車に間に合おうとするために

残りの3分の時間を駅まで走る「価値」はある

 

しかし

その3分間の走りは

乗りたい電車に間に合おうとするためだけに特化され

存在を許される3分間の走りではない

どのように使用されてもかまわず

どのように使用されようが

その3分間の走りはその3分間の走りであり

電車に乗れようが

乗れまいが

変質することはない

電車に間に合うことを主体として

それに従属することを強いられた3分間の走りでもない

 

あれには「価値」がある

あれには「価値」がない

そういう考えや

発言を

すべて落してしまったら

この世のごくふつうの風景は

どう見えるようになるだろうか?

 

こういう好奇心だけをエネルギーにして

わたしは生き続けてきた

 

このように生きてきた者には

過去というものはない

 

こういう者には

過ぎ去った物や事は

なし遂げた物や事ではなく

業績ではなく

培った物や事でもないので

ただ「無い」

ということに等しいからだ

 

過ぎ去った者や事

そして時間

それらが「あった」と思い込みたい者たち

さらには

それらが「価値」であると信じ込みたい者たち

 

そういう者たちから

わたしは大きく逸れて

過去のなさを

ただ「無い」ことを

「価値」のなさを

わたしのありようとする







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