意識は空間であり
そこには
さまざまな情報がモノとして流れ込んだり
持ち込まれたりする
モノ化した情報の多くが
そこに置かれたままになり
それらは
部屋に持ち込まれたモノがそうなっていくように
置かれたまま
堆積したまま
在るのはわかっていても
わかっているつもりでも
なにがあったのか
なにがどこにあるのか
忘れさせられていく
在るという思いだけが残り
それは意識のなかで重さとなっていく
モノと化して
堆積していく情報の性質は致し方ないとしても
せめて
意識という空間のなかで
ある程度の広さのある
なにも置かれない広がりは確保されるべきだ
なにも置かれない
ということで
そこは意識の核となって
空間内の整序を行うベースとなり得る
モノ化した情報が
いずれはどれも無価値になる
不用になる
という窮極の認識を曇らせないために
なにも置かれない広がりは確保されなければならない
教会の内部を例えに用いて言えば
内陣は何も置かれない空であるべきであるし
袖廊や翼廊と呼ばれる場所にも
何も置かれないのがよい
できれば身廊もからっぽであるのがよい
古い大きな教会では
ときおり
側廊に古びた不用のモノが置かれていて
物置のようになっているのが見られることがある
置かれた当初は意味や価値があっても
時代を経て汚れ
意味あいもわからなくなってしまったものだが
ずっと置かれてきたからと
そのままにされている
ひどいものになると
クワイヤーのまわりの周歩廊に
そうしたモノが置かれていることもある
側廊や周歩廊は教会の無意識に当たるところであり
わけのわからなくなってしまった
古いモノは
他の保管場所に移すか
あるいは
由来を調べて明記し
表面をきれいに洗ったり磨き直して
歴史や価値を確認したモノとして扱う必要がある
そうすることで
無意識のなかに忘却されていたり
ただ漂っていたりする知を
意識に引き戻すことができる
意識という空間は
教会の内部だと見つめ直してもよいだろう
側廊に置きっぱなしにしてあるものが
多くなっていないか
もっとも重要な無意識にあたる周歩廊は
目を瞑っても安全に歩けるように
きれいな空間となっているか
もちろん身廊も
なにかにぶつかったり
引っかかったりしないで歩いて行けるように
整えられ
掃除されているか
持ち込まれた
さまざまな情報が
モノ化して
其処此処に堆積し
通路を塞いでしまってはいないか
https://yofu.hatenablog.com/
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