2025年9月12日金曜日

意識は空間であり

 

 

 

意識は空間であり

そこには

さまざまな情報がモノとして流れ込んだり

持ち込まれたりする

 

モノ化した情報の多くが

そこに置かれたままになり

それらは

部屋に持ち込まれたモノがそうなっていくように

置かれたまま

堆積したまま

在るのはわかっていても

わかっているつもりでも

なにがあったのか

なにがどこにあるのか

忘れさせられていく

在るという思いだけが残り

それは意識のなかで重さとなっていく

 

モノと化して

堆積していく情報の性質は致し方ないとしても

せめて

意識という空間のなかで

ある程度の広さのある

なにも置かれない広がりは確保されるべきだ

 

なにも置かれない

ということで

そこは意識の核となって

空間内の整序を行うベースとなり得る

 

モノ化した情報が

いずれはどれも無価値になる

不用になる

という窮極の認識を曇らせないために

なにも置かれない広がりは確保されなければならない

 

教会の内部を例えに用いて言えば

内陣は何も置かれない空であるべきであるし

袖廊や翼廊と呼ばれる場所にも

何も置かれないのがよい

できれば身廊もからっぽであるのがよい

 

古い大きな教会では

ときおり

側廊に古びた不用のモノが置かれていて

物置のようになっているのが見られることがある

置かれた当初は意味や価値があっても

時代を経て汚れ

意味あいもわからなくなってしまったものだが

ずっと置かれてきたからと

そのままにされている

ひどいものになると

クワイヤーのまわりの周歩廊に

そうしたモノが置かれていることもある

側廊や周歩廊は教会の無意識に当たるところであり

わけのわからなくなってしまった

古いモノは

他の保管場所に移すか

あるいは

由来を調べて明記し

表面をきれいに洗ったり磨き直して

歴史や価値を確認したモノとして扱う必要がある

そうすることで

無意識のなかに忘却されていたり

ただ漂っていたりする知を

意識に引き戻すことができる

 

意識という空間は

教会の内部だと見つめ直してもよいだろう

側廊に置きっぱなしにしてあるものが

多くなっていないか

もっとも重要な無意識にあたる周歩廊は

目を瞑っても安全に歩けるように

きれいな空間となっているか

 

もちろん身廊も

なにかにぶつかったり

引っかかったりしないで歩いて行けるように

整えられ

掃除されているか

 

持ち込まれた

さまざまな情報が

モノ化して

其処此処に堆積し

通路を塞いでしまってはいないか

 

 


 

https://yofu.hatenablog.com/entry/2020/03/29/235210

 





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