旅の最中らしい、…詩人のさとう三千魚さんからMessenger が来て
秋田内陸縦貫鉄道にて.
もうすぐ、阿仁です。
私の父方の祖母が阿仁合の出なのを話したことがあって、
覚えてくれていたのだろう、旅の最中、
(秋田出身の三千魚さんにとっても、
故郷のまわりを、あらためて、さらに広く見歩く旅だろうか、…)
車中から、雪と枯木の、山下清の絵のような風景を
撮って送ってくれもして…
祖母は姉ふたりとともに阿仁を離れ、東京に出たと聞いた、
そのことを短く返信し、 明治四拾四年参月拾八日出生の祖母キクヱの
まだまだ若い心の、〈東京へ、東京へ…〉の、旅を、また、思った。
幾つだったろう、結婚が昭和拾年五月壱日と、
祖父の故郷栃木県都賀郡大宮村大字大宮村の村長岸省吾の名ととも に
祖母の故郷秋田県北秋田郡阿仁合町銀山字畠町貮拾参番地を本籍と する
戸籍謄本に記されているので、もし結婚の年だったとしても、
上京は二十五六歳のこと、たぶんそれ以下のことだっただろう。
マタギの村だと云われる、 それも大正から昭和はじめの阿仁合の娘が
二十を少し出たか、出ないか、くらいの年齢で上京する時、
汽車から見えた風景は、 三千魚さんの撮ってくれた風景のようだったか、
それとも、もう雪のない、初夏から初秋の風景だったか…
上にふたり姉がいて、三姉妹で上京したのだと、父から聞いた…
父は、祖母キクヱから、そう聞いたのだろう、…
そうか、と、私も思っていて、
三千魚さんにも、この三人姉妹の話を短く伝えてみたけれども、
忙しかった一日も済んで、深夜、
かつて、偶然のことで手に入った戸籍謄本のコピーを取り出して、
ずいぶん時間をかけて読み直してみると、話は違っている…
曾祖父吉田佐市と曾祖母リサの間に生まれた子らは、
長女トキヱ、明治四拾年八月参日出生
貮女キクヱ、明治四拾四年参月拾八日出生、
長男兼冶、大正参年壱月八日出生、
参女テツヱ、大正六年九月拾九日出生、
四女ミツヱ、大正拾壱年参月壱日出生、
貮男易冶、大正拾四年九月拾五日出生、
参男美躬、昭和参年八月壱日出生、
とあって、七人兄弟姉妹、キクヱは二人目の子で、
下に五人もいたのだから、
貮女とはいえ、お姉さんとしての思いが、 なかなか強かったはずだろう。
ともあれ、父の話も違うし、祖母が父に話したのならば、
なぜか、その大元も間違っていた。
三人姉妹で東京に出てきたのならば、 参女テツヱを伴ってきたのか、
七歳下のテツヱに、キクヱやテツヱはどう振る舞ったのか、
秋田から東京へ向かう、昭和はじめの、長い、長い鉄道の揺れは、
東京の地面を踏んでから、幾日、体の芯に残って揺れ続けたか、…
…と、キクヱの若い、上京の頃の、 心身に受けたものを想いながら、
あらためて、名が、キクエではなく、キクヱなのだった、と
じんわりと、気づき直す。ki-ku-e、ではなく、ki- ku-weだった…
この、語尾のweを、明治四拾四年生まれのキクヱは、
どう発音したのだろう、正確にweと、発音しようとしたのか、
それとも、簡略な音出しのしかたは阿仁合にまで侵略を進め、
さっぱりと、eと呼ぶことにしてしまっていただろうか、
自分自身の名前の語尾でさえも…
祖母キクヱの姉妹には皆「ヱ」が、「we」が使われているのに、
その母の名は、なんとシンプルに、リサ、なのか…
曾祖母リサの、洋風でもあれば、この21世紀風でさえあるような 、
このモダンな名は、どこから来たのか。
もちろん、その父と母の想念から来たのだが、リサの父の名は、
私の持っている戸籍のコピーでは切れてしまっていて、 読み取れない、
姓は、松橋、とあるようだが、確実ではない。
他の項目には、姓の最初に「西」の字があるようにも見えるが…
読み取れそうで、読み取れない、名は全く読み取れない、
しかも、リサの母の名の欄には小さい貼り紙がされ、 消されている…
リサが参女だったのはわかる。
リサの項目のうち、読み取れるところは、出生年月日と、
婚姻以降の記述…
明治拾七年拾月拾日出生
吉田佐市ト婚姻届明治三拾八年四月貮拾日受付入籍
大正六年拾月拾七日夫佐市分家ニ付キ共ニ入籍
昭和貮拾参年拾貮月拾四日午前壱時死亡
同居の親族吉田佐市届出同月拾六日附除籍
六十四歳ほどの生涯であったか…
戸籍謄本にはもう一部あって、 昭和六拾弐年拾弐月拾五日再製のもの。
これとて、読みやすい字で書かれてはいないものの、…
それでも、リサの項目には、
明治参拾八年四月貮拾日阿仁合町銀山貮拾五番地西根熊吉養妹婚姻 届出受付入籍
大正六年拾月拾七日夫佐市分家ニ付キ共ニ除籍
とある。
原戸籍と合わせて読み直せば、
リサは、おそらく、松橋姓の父を失い、母も、 戸籍上で貼り紙をされて完全末梢されるような事情で不明となり、
阿仁合町銀山貮拾五番地に住所のあった西根熊吉という人の養妹と された。
西根熊吉は、リサの結婚を、どう喜んだだろうか…
リサの夫、佐市は、明治拾四年貮月廿貮日生まれだから、
リサより三歳年上だった。
リサの亡くなった時、佐市が死亡届を出している。
佐市は六十七歳ほどであった。
佐市は吉田佐助の四男で、この父、 佐助は文政九年九月貮日の生まれとある。
佐市の母ハツは天保拾年拾貮月九日の生まれだった。
文政九年は1826年にあたり、天保拾年は1838年にあたる。
佐助とハツは12歳差の夫婦であった。
このふたりが私の父方の高祖父母にあたる。
佐助とハツの最初の子は長女ミノで、 安政四年七月三日に生まれた。
安政四年は1857年にあたり、もうあと十年で
長く続いた江戸時代は終わろうとしていた。
1853年は黒船、
1855年には安政の江戸大地震、
1858年には安政の大獄、
1860年、万延元年には桜田門外の変、…
阿仁合での、佐助とハツとミノの生活には、
そんな時代の流れも、まだ、 あまり影響は及ぼさなかっただろうが、…
江戸時代最後の慶応三年、1867年、
大政奉還の年に、長男、吉太郎が生まれる頃は、 どうだっただろうか、
少なくとも、ミノの妹、三女のハルが生まれた明治六年には、
徴兵制が布告されたので、中央と離れに離れていた阿仁合にも、
時代の波は、ついに、強い力で寄せることになっただろうか、…
ハルの後、晋之助、徳蔵、佐市…と男の子が続き、
私の曽祖父の佐市と、その長姉ミノの歳の差は24歳、
参女の姉ハルとの差は8歳で、
ミノやハルは、私の曽祖父をどのように見ていたものだろうか…
ミノは明治貮拾貮年壱月参拾壱日に米沢吉松に嫁した、とある。
24歳年下の弟佐市がリサと明治参拾八年四月貮拾日に結婚した際 、
ミノは、もちろん、婚礼の式に来たのだろうか、
私の曾祖母になるリサを、どう眺め、受け止めただろうか、…
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