2018年4月3日火曜日

九十五になった手を握って



もんぺをウィキペディアで引くと
「和服における袴の形状をした作業着の一種、
「またはそれを改良した作業用ボトムスを指す
などとあるが
ボトムスなどと言われると
かえってわからなくなる人もいるだろう
ほら、戦争中のあれ
女の人が穿かせられたズボンみたいなやつ
そう言ったほうが
ピンとくるかもしれない

ぼくらが教科書の写真で見せられたもんぺは
写真が白黒だったこともあって
ずいぶん地味な田舎臭い印象のものと見えたが
家にある着物から作ったものだから
戦時中のもんぺ姿は実は色とりどりだったと
染織研究家で着物コーディネーターだった随筆家の木村孝さんから
たしか、あれは
学士会館のレストラン《ラタン》でだったか
聞かされたものだった
その時代を生きた人にはあたり前でも
あたり前すぎることは
わざわざ語り伝えようとも思いつかないので
いつのまにか
後の世代には間違った印象が伝わっていってしまう
戦争中のもんぺ姿は地味で暗くて田舎臭くて
と貧相な教科書の写真から
後の世代はイメージを固定させていってしまう

今年の彼岸のおり
母としていたなにかの話でもんぺのことに話題が流れ
そういえば戦時中のもんぺは
じつはずいぶんカラフルだったそうだと
木村孝さんに聞いたことを話すと
なに言ってるの
きまってるじゃないの
みんなお家にあった着物から作ったんですもの
そりゃあいろんな色のもんぺがあって…
と話し始めた
田舎ではどうかわからないが
東京ではそんなのがふつうだった
というから
身近に生き証人がいたというのに
まったく聞かされることのなかったのに驚かされた

これが歴史というもので
ちょっとした偶然や
話のゆきがかりから姿を現わす
ごくごくあたり前の
気にとめるまでもないようなかつての些事から
水中花のように
ふいに咲き出る世界だ

九十五にして矍鑠としていらした木村さんが
《ラタン》でフランス料理を御馳走してくださったのは
2016年3月17日の夜のこと
ふいに亡くなったのはその年の11月2日夜のこと
高齢ながら、なお
いよいよ瀟洒な着物の着かたを実践し続けていた木村さんは
学士会館でのディナーの後
私と妻に伴われ
妻の手を取りながら階段を降り
少し肌寒い外に出て
建物の前からタクシーに乗って帰って行った

「本当はあなたに手を握ってもらいたがっていたのよ」
と後で妻に言われたが…

いま
ときおり学士会館の前を通りかかると
外の階段を下りてくるあの夜の木村さんが
あいかわらず
こころの中のあの時間に見えている
肌寒い夜でもあったのだし
かつて山本富士子が映画『夜の河』で演じた主人公のモデルだった
木村さんの九十五になった手を握って
タクシーのところまで連れていくべきだったかと
思ったりする
たびたび贈り物をくださったことや
急にかかってくる電話の
九十を越えている人とも思われない元気な声に
応対したりしたことなど
思い出しながら
こころの中のあの夜を
学士会館の前を通りかかると
昼でも
夜でも
肌寒くない時節でも
見続けてしまう




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