今日も他人たちが死ぬだろう
私は死なない
もっとも私は生きてさえいない
私はあるが
それを自己と思い込むものの所有物ではないし
あり得ない
どれほど救いようもなく人が現実から離れて生きているか
それがすぐにわかるきっかけのひとつに
誰もが親しんでいると思っている「私」の使用がある
「私」とは
文字であり
つまりは8本の黒い細線の集まりであり
せいぜいのところ
そこに重ねられた恣意的な音声でしかない
「私」は
これを記したり
発音したりする意識ではないし
声帯や口腔を動かす見えない動力主では
もちろん
ない
「私」を
自分と思い込むような
驚くべき跳躍
説得力の全くない思い込みは
いったいどのようにして発生するのだろう?
人が「私」と言う時
どの「私」も「私」であって
もし「私」の存続が重視されるのならば
どの口も「私」と発語するのだから
どの口が言う「私」が存続するのであってもよい
ここに大量虐殺がつねに許可される根拠があり
間引きがいかなる時代いかなる場所においても正当化される根拠が
「私」は生ではなく
人間でもなく
世界にひとつしかないものでもなく
失われていけないものでもなく
唯一無二のものでもないから
「私」はありふれてい過ぎる
「私」は多過ぎる
あなたの「私」に興味はない
というより
あなたの「私」などない
AIも「私」と発語する
AIのほうがよほど重層的な
深い
味わい深さを
「私」に重ね合わすことができる
もし
いつまで経っても
重層性や
深さや
味わいが求められるのならば
それらも
もう
くだらない
どのようにも偽造でき
機械的に
作り込めるのだから
さて
どこへ向かうつもりだね?
人よ?
まだ
つまらなさや
くだらなさに
耐えていけるつもりなのかい?
0 件のコメント:
コメントを投稿