ひょんなことから
自由詩形式を使ってみることになって
だんだん使い慣れてきて
なぁんとなく使い続けてくると
なぁんにも書く必要なんてないのに
なんか途中で止めちゃうのももったいない気になって
書き続けているだけなんだけど
現代詩ってやつとか
詩人ってやつに対して
ぼくほど徹底した敵もいないものだから
なんか座りが悪いなぁと
ときどき思っちゃったりもする
詩人ってやつ
ほんと
気味が悪いんだぜ
いっしょにいると運気が落ちるような
うすら寂しい感じのやつか
あるいは団塊の世代みたいなダサイやつか
どこかの先生みたいな
茶色っぽい系のジャケット着ているやつなんだ
たいてい
そうして
奇妙なほど仲良しクラブになっていて
歳が進むとお達者クラブになってきて
杖なんかだんだんつくようになっちゃって
ベレー帽なんか被っちゃってさ
大久保清してくるの
なにかというと
『現代詩手帖』に載ったとか
そこに出ていた何何さんのなんとかは・・・とか
そんな話になるんだけど
『現代詩手帖』っていったら
ぼくはル・クレジオを特集した号と
吉増剛造を特集した号しか買ったことがなくて
それらにしても特集記事だけ読んで
あとのページはつまらな過ぎてまったく見なかったくらいで
やっぱり世界が違い過ぎるんだね
雑誌といえば
『遊』はほとんど読んでいたし
『エピステーメ』もずいぶん読んだし
伊丹十三の『モノンクル』とか
1980年代の『マリ・クレール』もけっこう見たし
近年なら『ブルータス』の
映画特集号だけは見るんだけど
触りもしないなぁ
『現代詩手帖』って
たぶん
もう20年ほどは
触っていないんじゃないかと思うな
そういうやつが
惰性からでも
性懲りもなく使い続けているんだから
自由詩形式って
たいしたもんだと思うよ
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