「ひとつの文体とは、自分自身の言語[自国語]において吃るよう
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『対話』
「書くことは正確な人間を作る」
という
小学校で
先生が強調した
フランシス・ベーコンのことばを
信じたわけでもないが
たぶん
ぼくは
ゼロから
にほんごを学ぼうとして
つとめて
ことばを記すようにしてみている
ぼくは
にほんごを知らないのだ
なんだか
よくわからない
しかるに
まわりのひとたちは
にほんごなんて
わかっているのが当たり前だというように
にほんごをじぶんたちは所有しているかのように
ぺらぺら
にほんごをしゃべっているし
さくさく
にほんごを書いている
こどもの頃から
それに
すごい違和感があった
にほんごは
なめくじのように
いつも
どこかどろどろしているし
ひとも来ない汚れた小さな神社の柱に
むかしに貼られたままの紙の
そらおそろしい字のように
きもちわるい
ぼくは
すこしでもどろどろしないように
きもちわるくならないように
にほんごに慣れよう
にほんごの裏の思いのようなものを見抜こう
と思って
にほんごを記してみている
そういえば
フランシス・ベーコンは
じつは
「読書は充実した人間を作る
会話は気がきく人間を作る
書くことは正確な人間を作る」
と書いたのだそうで
だったら
読書だけでいいかな
と
いまのぼくは思ったりする
本当は
充実vs気がきくvs正確
をこそ
ベーコンは問題にしたのだったかも
しれない
だいたい
小学校の先生が
ベーコンのことばを引用したのも
ノートのとりかたを
教えるときの
かっこ付けだったかもしれない
読書のすすめのときなら
「読書は充実した人間を作る」
のほうを
きっと
引用しただろう
学校の先生というものは
いつも
ご都合主義な
ものなのだから
0 件のコメント:
コメントを投稿