2022年1月28日金曜日

死体と鬼

  

 

「鬼は陰で、神は陽である。気が屈するのを鬼と言い、

気がひたすらやって来るのを神と言う。

『洋洋然としてその上に在るが如し』、

『焄蒿悽愴たるは、此れ百物の精にして、神の著はるるなり』とあり、

これはつまり、あの発生した精神である。

神は成長するもので、大きくなれば、

その現れが感じられて、即ち気の伸びるものである。」

 朱子

 

「程明道は『天地の間に、只だ一箇の感応有るのみ』と言う。

思うに、陰陽の変化、 万物の生成、感情の疎通、事や行為の終始は、

一つが感となれば、もう一つが応となり、それが循環して

互いに交替することによるものであり、故にやむことがないのだ」

朱子

 

 

 

 

中国に仏教が入った時

いくつもの論争が起こったが

そのうちでも

肉体の死とともに精神も滅びるのかどうか

このことをめぐっての対立は

もっとも重要だった

 

仏教徒は

精神と肉体は離合すると見なしていたので

一方が滅んでも他方は影響を受けず

したがって精神は存在し続けると考えた

 

中国側の思想家笵縝は

精神と肉体はひとつの体のふたつの面で

用と質を意味すると考え

したがって肉体の死は精神の死でもあるとした

笵縝は形神相即論を唱え

生死は忽然とひとりでに存在したり

突然に無くなったりする

自然独化であり

精神は自然の法則のもとで存滅するにすぎない

と考えた

 

ところが

どちらの論も存在と消滅だけを軸に

コントラストの強すぎる思考をしていたため

死体と鬼とを説明しきれない

 

肉体は死んでも

すぐには消滅せずに

死体としてしばらく留まるが

肉体でもなければ精神でもなく

無でもなければ不在でもない死体は

説明に窮する存在物だった

 

幽霊を意味する鬼も

肉体でもなければ精神でもなく

存在でもないのに

その現われ自体は現に存在しているので

仏教徒の論も笵縝の論も

すり抜けてしまう

 

鬼という特異な精神をなんとか回収すべく

やがて朱子が鬼神論を立てて

精神の共同体というものを仮定して

祖先祭祀という方法を導入していくことになるが

そのあたりの苦しい論理展開は

朱子のものというより

人間の辿りうる論理の限界を露骨に示していて

今なお最前線にあり続けていると言える

現代の人間はそのあたりを考えるのを放棄してしまったが

朱子は執拗に考え続けていたのが

微笑ましいし

大したものだと思わされる





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