闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう
中島みゆき 「ファイト!」
だいぶ前
職場で知りあって
その職場を離れてからは音信が絶えていたが
なにかのきっかけで
ときどき
メールをしてくるようになった人がいる
友人ではないが
ずいぶん親密な話を聞かされる
こちらは
相談相手のようなものなのだろうか
それとも
ただの痰壺のようなものだろうか
いろいろ書いてくるのを読むと
いろいろ教えてやりたくなることもある
しかし
そういうのは最小限にとどめる
人がどんなに困っても
死ぬような事になっても
助言はなるべくしないほうがいい
人生のなかでそう学んだ
困ることも
死さえも
人からの助言を必要とするほどには
たいしたことではないのだと
ガンになって
二年ほど治療を続けたのは聞いている
調子のよくない時もあった
一年近くメールが来なかったので
やはりダメだったのか
と思っていたが
ひさしぶりにメールが来て
だいぶよくなってきたと知らされた
自身の病気のことより
今回のメールの内容の中心は
その人の父親の死だった
その父親については
これまでのメールでずいぶん聞かされてきた
家庭内での暴力や暴言の絶えない父親で
外でも暴力や暴言がひどく
警察沙汰が多かった
病気で入院すると病院でいざこざを起こす
他の患者たちにも暴言暴力をふるう
ものを壊す
意図的に陰湿ないじめを始める
精神障害か
脳機能の障害がきっとあるのだろうが
生活していく上ではなんでもできるので
本人はもちろん認めない
精神科にも連れていけない
父親以外の家族みなが
ホテルに避難するような事態も多かった
家から離れてその人自身は自活するようになっても
母親や身体障害者の弟が
また
ホテルに避難している始末で…
とメールしてきたことも
あった
その人は
子どもの頃から父親の物理的な攻撃を恐れ
心の「底の底の底…」から
そんな父親を憎んで生き続けてきた
そんな父親が
ついに死んでくれた
という
憎悪
恨み
つらみ…
そんな言葉で表現するしかないが
とても表現しきれない思いが
しかし
納棺の時にすうっと消えていくのを感じた
という
火葬後の骨を見た時は
なんともいえない安堵感に満たされた
という
やっと
こんな骨になってくれて
もう二度と
自分たちに暴力も暴言もふるわなくなった
と心の底からよろこびが湧き出てくるようだった
という
五十年以上のあいだ
こんな父親を持たされてしまった
という
戦争
の
ようやくの
終結
無限に心が解放されていくような
浮き立つような
奇妙な浮遊感のある
葬儀前後の儀式が
本当に必要なものだったと感じた
という
「不謹慎かもしれませんが」と前置きして
「よかったですね」
とわたしは返信した
わたしもまた
あまりに多くの苦渋を舐めさせられてきた
全身全霊
復讐の権化
チープな道徳論や
チープなインスタント悟り論など
わたしの周囲では
数メートル以内で焼け落ちてしまうだろう
なにひとつ
決して
水に流さない
人づきあいはすべて
十年も二十年も三十年も四十年もしてから墓を暴き
死体を引きずり出して
鞭打つための
ネタ集め
お父さんの死、
不謹慎かもしれないですが、
よかったですね、と言いたいです。
前世の縁というか、
なにかの業の滅却というか、
そうしたことのために親子になったのでしょう。
家族でも、
職場でも、
友人知人でも(
ダメな人は絶対にダメです。
よくなってくれる、
わかってくれる、
きっと和解できる、
そんなこと、絶対にありません。
こちらから見て、つき合う上でダメな人は、
なにがあろうと、よく変化してくれることはないのです。
若い時は、この点で
夢や期待を持ち続けてしまうのだと思います。
子どもの頃など、
いつか相手とうまくやっていけるようになる、と
ヘンな偏向教育をされますし。
でも、それはウソで、
ダメな相手は切り捨てるか、
いろいろな意味で殺すしかありません。
ぼくはこの点では、超過激派ですので、
薄っぺらな甘い理想主義には一切同調しません。
だからといって、
人を恨む、憎む、ということはほぼ全くしません。
ただ、人を捨てる、離れる、放っていく、
というやり方ですので、
ふつうは、特にガタガタするわけでもありません。
非常に平和的なやり方だと思っています。
人生とか
この地上体験において、
ゲームではじめに回ってきた球を保持し続けたり、
最初に配られたトランプのカードを保持し続ける必要などない、
と思っているだけです。
球もカードも、どんどん手放して、
べつのものが回ってくるようにすべきだと思っています。
保持し続ければ、負けるんですよ。
そういうことを理解し、
身につけるのが
この世ならではの学びだろう、
と思っています。
どんどん手放す。
なにもかも、ただのゲームのボール、
ただのカードです。
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