危機は、実際に歴史を揺るがす大きな出来事が起こる少し前に、
人間の心の中に現われる。
ヤコブ・ブルクハルト
夢は第二の人生である
と
ネルヴァルは
書いたが
あまりに不正確な言い方だと思ってきた
夢が第一の人生である
というのなら
まだしも
そこまでいわずとも
夢が人生の根底をなす
ぐらいは
言っておいてよい
夢が
目覚めた後の
いわゆる“現実”の意識に流れ込み
合流し
その夢を見る前の意識とは
まったく違うものを成していく
といえば
誰でも納得のいく言い方になるだろう
これで抽象的過ぎるというなら
昨日わたしが見た夢を記しておこう
朝鮮人たちの処刑の現場にいた
顔から判断して
朝鮮人なのか
日本人なのか
中国人なのか
よくわからないというのは
いわゆる“現実”の中でもよくあることだが
この夢の中では
処刑されるのが朝鮮人たちだとわかっている
そうだということが
夢の中のわたしの意識に「わかっている」からだ
処刑される彼らと
彼らの処刑を見ているわたしとは
となりあって
いっしょにいる
朝鮮人たちは20人ほどいて
わたしも
彼らと
ほとんど
いっしょにいた
わたしと彼らの違いといえば
彼らは殺される
とわたしが確信的に知っていることで
わたしのほうは殺されない
とわたしが確信的に知っていることだった
やがて
剣や槍などの刃物を持った兵士の群れが来て
グリーン鮮やかな草の広場で
朝鮮人たちを殺し始めた
刺したり
切ったり
切断したり
刃物でできるかぎりの
ひどい切り殺し方をし続ける
草はらのわきの
コンクリートの廊下にわたしは立って
刺したり
切ったり
切断したり
というさまを見続けている
刺したり
切ったり
切断したり
しても
人間はなかなか死に切らないものだと
実地にあれこれ見ながら
思った
そうはいっても
刺したり
切ったり
切断したり
しているうちに
20人ほどの誰もが弱って
倒れていく
倒れたままになっていく
ひどい殺し方だ
なんという殺戮だ
と思いつつ
それでも
こんなに衰弱して死んでいく過程に入ってしまえば
だんだん静かになっていくのか
なにもなかったかのように
雰囲気は平和になっていくのか
と思えた
刃物による殺戮が
終わった
ひどい光景だったが
静かになった
平和になった
平和とは
殺戮の後のことを言うのか
と思った
すると
殺戮者たちが
今度は機関銃を持ってきた
刺したり
切ったり
切断したり
して
殺し尽くしたと思われた20人ほどを
コンクリートの廊下にならべ
機関銃で連射し始めた
コンクリートの廊下は
わたしのいるところだったので
跳ね返った弾は
わたしに当る可能性もあった
危ないなあ
こんなところに撃って来るなんて
そう思って
廊下から部屋に入り
木戸を閉めた
閉めても木戸なので
跳ね返ったり
逸れた銃弾が戸を撃ち崩してくる
室内にも
いつ飛んでくるか
わからない
わたしのほうは殺されない
とわたしが確信的に知っているので
仮に銃弾が室内に飛んできても
わたしはけっして恐れないだろう
と自分の心理を読めていたからよかったものの
そうでなければ
非常に恐ろしい状況だった
木戸を閉めているから
外の廊下に並べられている20人ほどの体が
無数の銃弾を受け続けてどうなっていくか
見えるはずはなかったのだが
すでに息絶えている彼らの顔が次々砕かれ
手の指が弾け飛び
腕が砕け散り
腹がスポンジや網のように分解していくのが
わたしの意識にはよく見えていた
まさにそんなところが夢のシステムだった
このあたりで
わたしは目覚め
いわゆる“現実”のほうに戻ってきた
枕や布団を確認し
わたしが眠っていたことに
気づき直した
こうした
朝鮮人殺戮の夢が
目覚めた後の
いわゆる“現実”の意識に流れ込み
合流し
その夢を見る前の意識とは
まったく違うものを成していく
といえば
いっそうリアルに
誰でも納得のいく表現になるだろうか
現に
わたしは今も
あの20人ほどの朝鮮人の殺戮の場面を
克明に意識の中に見続けていて
これを抱えたまま
明日も
あさっても
いわゆる“現実”を生きていくことになる
どうして
朝鮮人だったのか
現代の服装より
すこし古い時代の服装だったようにも思うが
機関銃の出てきたあたり
20世紀以降の光景だったろう
それとも
いわゆる“現実”の中で
これから
どこかで起こる光景だろうか
韓国人でもなく
北朝鮮人でもなく
朝鮮人…
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