ある程度年齢を重ねると
この世というのは
日々
ただ生きのびて
いつか死んでいけばいいところに過ぎない
と
わかってくる
功名心とか
なにか
成し遂げる気概だとか
そんなものは
どうでもいいものだったと
臓腑の奥から
体じゅうの細胞の奥から
わかってくる
金儲けの欲だの
出世欲だの
性欲だの
いろいろな動力があるようでも
本当に人間を社会で動かし続けるのは
承認されたいという欲求
自分の理想的な姿を見られたいという欲求
自分がここにいると知ってもらいたいという欲求で
ようするに
子どもが持つそのものの欲求でしかない
バカでないかぎり
こうした欲求を叶えるためにムリし過ぎて動くのは
さすがに
あまりに愚かなことと
いい歳になれば
わかってくる
なるべく早くから
爺むさく
ご隠居さながらに落ち着いて暮らせ
と言いたいのではない
落ち着かずに
世の中のあっちこっちを
フラフラ見てまわるような生き方でいいと思う
思うが
あっちこっちに純粋に興味を惹かれて
ほんとに面白くって
フラフラ見てまわっている
というのが望ましい
SNSなどで気ぜわしい現代となったが
あちこち見まわしていると
中高年になっても
見て!見て!わたし!系がワンサといて
どうして
こうも
子どもじみてしまっている大人が多いのか
と思うが
それが時代というものかもしれない
そういう時代なのかもしれない
見て!見て!わたし!
とプレゼンしてくる人たちのありようを
日々
ボーッと見たり
短時間でササッと見飛ばしていったりするわけだが
なんと大人げない…
などと思ってあきれることは
それでも
あまりなく
幼いなあ…とか
そんなに存在確認してほしいか?とか
思ったりはするものの
そう悪く思うわけでもなければ
そう不快に受けとるわけでもないところが
わたくしのひとのよさかもしれない
物好きなところかもしれない
キャベツ畑なんかに行くと
モンシロチョウがちらちら舞っていて
二羽が近づいて睦みあって
交尾しようとしたりする
あれあれ
あんなことをしようとしていて
なんと元気なこと
なんと楽しそうなことと
しばし見続けてしまったりするが
SNSなんかで人びとが舞い続けるのも
そんな光景と似ている
見方によってはどれもこれも歌で
古今集の序にある言葉を思い出させられる
花に鳴く鶯
水にすむ蛙の声を聞けば
生きとし生けるもの
いづれか歌を詠まざりける
とはいえ
歳を重ねてくると
承認されたいという欲求
自分の理想的な姿を見られたいという欲求
自分がここにいると知ってもらいたいという欲求
など
など
など
どれもむなしく
はかなく
そんな欲求に突き動かされて
時間や金や労力を蕩尽して
なにごとか
“自分”なるものの表象を世間に対して打ち立てようとしても
ほぼすべて
数ヶ月か数年のうちに
砂浜の足跡さながら
まことにきれいに消し去られていくのが
身に染みて
わかってしまっている
運よく数年ほど世間に痕跡が残ったとしても
十年や二十年も経つと
もうすっかりべつの時代となっていってしまい
それでもなおも残っていくものは
どういうぐあいでか
そのもの独自の価値とは異なったものの作用によって
すでに古典らしきものに
なりおおせる過程に入ったものしかない
さらに三十年や四十年経つと
もちろん
またまた様変わりしていってしまうのだが
わたくしのまわりには
たくさんの創作家たちがいて
美術家がいて
批評家たちがいて
研究者たちがいて
写真家たちも
ダンサーや舞踏家たちもいた
かれらの個展や発表会がない月はなく
呼ばれては
時間を割いて出かけていって
さほどたいしたこともない作品ひとつひとつの前で講釈を聞かされ
きまって新しい出会いもあって
夜は飲み会となった
よく下北沢で会った若き女性写真家などは
持ち出す機材があまりに多くて重いので
自転車の後ろに手製の小リヤカーをくくりつけて
これに全部載せて
東京中を走ってまわっていると言っていた
こういう人たちとは
出会ってから
数ヶ月
数年
つき合いは続いていく
しかし
毎回の個展や発表会に行くわけでもなくなると
だんだんと
十年も経つうちには
いつのまにか
案内が来なくなり
音信不通になってかかわりは消えていく
ぶっきらぼうな言い方をすれば
中年になると
たいてい
人びとの創作活動は放棄されていく
結婚しても
結婚しなくても
子どもができたりすれば
さらに放棄されていく
子どもができてからは
生活費を稼ぐ仕事をしないといけないということで
さらにさらに放棄されていく
そうこうしているうちに
体調不良
病気
家族の病気
家族間の不和
などが到来してきて
さらにさらにさらに放棄されていく
そうした椿事を吸収し栄養とする創作活動は
すこぶる自然主義的な小説創作ぐらいしかないが
そういう時代でもなければ
檀一雄でも太宰治でもないので
さらにさらにさらにさらに放棄されていく
こうして
ザッとふり返っても
二〇〇人は下らなかった知りあいの創作志望者たち
わがボエーム時代の仲間たちは
東京の空の下
どこかに影をひそめてしまい
彼らが関わっていたジャンルの情報をときどき見ても
どこにも彼らの名は上がってこない
むかしむかし
フランス語の勉強のために習いおぼえて
ときどき口ずさんだ
シャルル・トレネの『詩人の魂』などが
あゝ
いまは
なんと切実に
わたくしという秋の心に鳴ることか!
ずいぶん ずいぶん ずいぶん
経ってしまった 詩人たちがいなくなってからというもの
それでも かれらの作った歌はいまも街に流れる
ひとびとはうろ覚えにそれらを歌ってみたりしている
作者の名前なんか知りもせず
作者の心が誰にときめいたのだったかも知らずに。
ときどきは言葉や文を変えてみたり
歌詞を忘れてしまったりすると
ごまかして歌ってしまうのだ ラララララ ラララララララと
ずいぶん ずいぶん ずいぶん
経ってしまった 詩人たちがいなくなってからというもの
それでも かれらの作った歌はいまも街に流れる
(……)
Longtemps, longtemps, longtemps
Après que les poètes ont disparu
Leurs chansons courent encore dans les rues
La foule les chante un peu distraite
En ignorant le nom de l'auteur
Sans savoir pour qui battait leur cœur
Parfois on change un mot, une phrase
Et quand on est à court d'idées
On fait la la la la la laLa la la la la la
Longtemps, longtemps, longtemps
Après que les poètes ont disparu
Leurs chansons courent encore dans les rues*
(……)
*Charles Trenet L'âme des poêtes (Longtemps, longtemps, longtemps)
https://www.youtube.com/watch?
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