例えば、人々が大文字の法について語り、「
ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン
『近代科学とアナーキズム』(1912)
アナーキスト運動のビッグネーム
ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキンが
1921年にモスクワ近郊ドミトロフ村で79歳で死んだ時
ボリシェヴィキ政府はただちに「国葬」を提案した
しかし実現はしなかった
側近のアナーキストたちが拒絶したからだ
行なわれた葬送には多数の一般市民が参列し
熱狂的な政治的デモ行進に発展した
これに恐れをなし
ソヴィエト政府は大々的なアナーキスト弾圧に乗り出すことになる
もっとも
第一次大戦の頃から
クロポトキンの声望は落ちていた
ルースキエ・ヴェドモスチ紙に掲載した書簡で
対ドイツ戦を支持していたからである
アナーキストには許しがたい裏切りであった
アイドルは必ず失墜する
グレアム・グリーンにもあったね
『落ちた偶像(The Fallen Idol)』が
1881年頃のクロポトキンは
まだ名声赫赫たるアイドルだった
39歳の彼はアナーキズム宣伝活動のために
ロンドンに移住する
しかしあまりの手ごたえのなさに落胆し
フランスに移住することになる
イギリスのような「墓場にいるよりは
フランスの牢獄にいるほうがまだマシだ」
というのが彼の判断だった
彼はすぐにリヨンで逮捕され
禁固刑5年の判決を受けてリヨン監獄へ
さらにクレールヴォ監獄へ投じられるが
不当逮捕に対し世界中に巻き起こった非難の声や
ヴィクトル・ユゴーやクレマンソーら名士たちによる
フランス政府への釈放要求のために
監獄内にクロポトキンへの特別配慮がなされた
特別の書斎が与えられ書物も自由に取り寄せられる
喫煙も許されワイン付きの食事も与えられた
3年後に釈放されると猛然と執筆を開始し
『ロシアとフランスの牢獄にて』では
「国家によって支えられる犯罪大学」である牢獄では
人にいかに致命的な道徳的堕落が生じるかを述べ
自由を奪われると人間性に何が起こるかを論じた
その後『アナーキストの道徳』や
『パンの征服』などが書かれていくことになる
紙風船のように宙を舞う「国葬」という単語や
自由の政治の「墓場」であるロンドンが
ひとしきりニュースを賑わす時節
思い出しておくにふさわしいいにしえの
「国葬」拒絶事実とそれに関連するお話であろう
*ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン 『近代科学とアナーキズム』 (勝田吉太郎訳、中央公論社、世界の名著42、1967)pp.
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