大関松三郎の名を
とんと
聞かない
詩を好む人たちから
まったく
聞かない
小学校のとき
名詩だと
名詩人だと
国語の時間に読まされて
詩って
こんなもの
なのかなあ?
と
納得しようと
した
けれど
長い歳月
地上体験を経て
大関松三郎
読み直してみると
悪くない
農民であることを
鼻にかけすぎているけれど
農民なんだから
それはそれ
おれは 人間といわれ
おれは 百姓といわれ
おれは くわをもって 土をたがやさねばならん
おれは おまえたちのうちをこわさねばならん
おれは 大将でもないし 敵でもないが
おれは おまえたちを けちらかしたり ころしたりする
おれは こまった
おれは くわをたてて考える
だが虫けらよ
やっぱりおれは土をたがやさねばならんでや
おまえらを けちらかしていかんばならんでや
なあ
虫けらや 虫けらや
とはいえ
ここに見られる
虫とおれとの関係の合理化は
容易に
大日本帝国人とそれ以外のアジア人との関係に
適用されただろう
と思う
やっぱり日本人はアジアをたがやさねばならんでや
おまえらを けちらかしていかんばならんでや
なあ
アジア人や アジア人や
などというふうに
容易に
利用できる
言語記述というのは
あらゆる面を保存できるからこその
貴重な記録でもあり
見る目を持つ者が見れば
多層的な人間解剖ができる
そういう意味で
大関松三郎
すごいじゃない?
と
なる
小学生の頃は
知らなかったが
大関松三郎は
海軍通信学校で通信技術を学んで
海軍通信隊に入り
マニラに赴任する際
乗っていた輸送船が魚雷攻撃を受けて
南シナ海で没した
18歳だった
若くして死んだ
というのは
小学生の頃に聞かされていたが
きっと
結核かなんかだろう
と
思い込んでいた
いつになっても
いくつになっても
小さな情報の誤りを正すのは
大切
夕日
なんていう詩は
小学生の頃
読まなかったような気がするが
どうして
どうして
言葉の音の
いい手ざわりを
ずっこ
ずっこ
伝えてくれるじゃないか
夕日にむかってかえってくる
川からのてりかえしで
空のはてからはてまで もえている
みちばたのくさも ちりちりもえ
ぼくたちのきものにも 夕日がとびうつりそうだ
いっちんち いねはこびで
こしまで ぐなんぐなんつかれた
それでも 夕日にむかって歩いていると
からだの中まで夕日がしみこんできて
なんとなく こそばっこい
どこまでも歩いていきたいようだ
遠い夕日の中に うちがあるようだ
たのしいたのしいうちへ かえっていくようだ
あの夕日の中へかえっていくようだ
いっちんち よくはたらいたなあ
ぐなんぐなんつかれた
なんて
ほんとに
感心してしまうんだ
ぐなんぐなんつかれた
なんて
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