上に飛鳥なく、下に走獣なし。
四顧茫茫として、之く所を測る莫く、
唯日を視て以て東海に准へ、
人骨を望んで以て行路を標すのみ。
しばしば熱風悪鬼あり、之に遇へば必ず死す。
(『梁高僧伝』巻三)
これは
東晋の僧の法顕三蔵が
仏典を求めて399年に長安を出発し
西域から中央アジアを踏破して
インドに赴くべく
流砂のタクラマカン砂漠を越えた時の
自身の手になる記録である
法顕三蔵が過酷な旅に出たのは
64歳の時だったという
おなじく長安を出発すると言っても
唐の玄奘は28歳
義浄は37歳であったのに対し
ずいぶんと老いてからの決意であった
はじめは10人や11人の僧とともに旅立ったが
みな途中で死に果ててしまう
ヒマラヤ山脈を越える時には暴風雪に遭い
親しかった慧景もここで凍死する
慧景は
「自分はここで死にますが
どうか法顕さま
あなたさまは前に進んで行って下さい。
ここで一緒に死んではいけません」
と言って法顕を励ました
法顕は慧景の死体を撫でながら
「あなたが志を果すことができなかったのも天命である。
自分は一人になっても進み行くであろう」
と言ったという
法顕はインドに402年から411年まで滞在し
グプタ朝チャンドラグプタ2世のインド各地を廻った
都パータリプトラで3年のあいだ仏典を研究し
セイロン島に2年滞在した後
貿易船に便乗して
マラッカ海峡を通り
ジャバ島を経て広州に行こうとしたが
颱風にあって山東半島に漂着した
412年に東晋の都建康に帰り着いたという
5世紀初めのインドと中国の交流を示す貴重な資料の
『仏国記』とも呼ばれる『法顕伝』には
「長安を発してより六年にして中インドに至り、
停って経ること六年、還るに三年を経て青州(青島)に達せり。
凡そ遊履するところ減三十国あり」
とまとめられている
78歳で帰国したということになろう
老いて健康な人の増えた現代では
昔の人たちは40や50で老人で
はやく隠居していたなどと思ったりするが
昔よりもっともっと昔には
法顕のような怪物的な老人もあった
齢150に達した達磨や
107歳で死んだ慧可などを思えば
これらの人びとの後数百年ほどは
人間界は軟弱でひ弱な者たちが蔓延った
つかの間の一時期というべきかもしれない
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