2025年2月18日火曜日

満開の桜が幽霊の衣みたいに空にかかっている

 

 

 

これから来る季節への

心づもりをするような気持ちもあって

倉橋由美子の

『夢の浮橋』(1970)など

開いてみる

 

最初の「嵯峨野」という章は

このように

始まっていた


 

三月初めの嵯峨野は地の底まで冷えこんで木には花もなかった。桂子が嵐山の駅に着いたのは正午まえで、耕一と会う約束の時刻にはまだ間があった。渡月橋まで歩いて嵐山を仰いだが、花のまえの嵐山は見慣れぬ他人の顔をして桂子のまえに立ちふさがっていた。
 嵯峨野に来たのは桜のころが一度に、あとはいつも秋であった。花も紅葉も、明るくてやがて消えるはなやかさだったが、いまは冬のつづきで、心まで冷えこむさびしさだけがある。人目も草も、枯れたもののあいだに、冬を越して残っている常緑樹が黒ずんだ葉の色をして立っているのは、かえってうとましい気がした。



桜の前の嵯峨野も

桜の盛りの嵯峨野も

その他の季節の嵯峨野や嵐山もさんざん見た末に

この冒頭をあらためて読むと

「地の底まで冷えこんで」という表現や

「花のまえの嵐山は見慣れぬ他人の顔をして」という表現や

「心まで冷えこむさびしさ」という表現は

ちょっと違っているのではないか

と思ってしまう

 

寒い時期の嵯峨野は

「地の底まで冷えこんで」とか

「心まで冷えこむさびしさ」というのではなく

どんなに寒くても

どこか表層的な襖絵のような寒さで

枯れた冷たさの底に冬の肌のぬくもりが潜んでいるような

そんな寒さと感じることが多かった

 

作者が好きに形容すればいいことなので

異議申し立てのようなことを言っても詮ないのだが

それはともあれ

この人生であまりに馴染みすぎた場所のひとつの嵯峨野が

こんなふうに提示されてくるのは

小説を読む際には楽しい

 

こんなふうに

嵯峨野を出してくるような小説では

日本の場合

落ち着いた取り澄ました

文科省公認のような公序良俗的な内容を

ながながと退屈に述べていくようなことはしないもので

倉橋由美子のこの小説でも

10ページも行かないうちに

緊縛だのスワッピングだのの性愛談義に落ちいっていくので

家族で回覧できるような

無難なつまらない小説を避けたがるような読書家は

あわてて『夢の浮橋』 を

リストから外さないようにしたほうがよい

 

ところで

この『夢の浮橋』では

すっかり薄っぺらに俗化し切った平成から令和がお得意とする

脳もなく

芸もなく

わあキレイ

わあステキ

わあスゴイ

などと

満開の桜を褒めあげるような路線を取っていないことに

あらためて感心させられる

 

昭和の反骨精神健在

とでもいうところだろうか

 

主人公の桂子も

彼女が訪ねる大学教授も

桜を恐れているのだ

 

 

今年は花が遅いといわれていた。

それでも入学式のころには大学の桜並木は雲をかぶったようで、葉のみえない花ばかりの木の下を通るのはうす気味が悪いほどだった。桜は桂子の好きになれない花である。花ざかりの下から振りあおぐと、この世のものとは思えない妖気の雲がたちこめていて、さびしさに首すじが冷たくなり、花の下にひとがいなければ、桂子は狂って鬼に変じそうであった。
 おととしの花のさかりは入学式よりも早くて、「花の下に鬼があらわれるの、お能にあったかしら」と耕一にたずねたりしたのも、まだ学生の姿もみえない桜並木のベンチでだった。
 「どうだろう」と耕一は花空に顔を向けていった。「花のほかには松ばかり、というのは道成寺だが、あれに出てくるのは鬼というより蛇体だ。鬼どもが活躍するのは紅葉狩のときだよ」
 「でも秋よりもこんな花ざかりの下が恐しいわ。さびしくてかなしい女の狂気が花に誘われて鬼になるのではないかしら」
 「鬼になってごらん」
 そういわれて桂子は口で笑ったまま眼にかなしみを集めて耕一をみつめた。

 

「先生」と桂子のほうが息をはずませると、堀田はにっこりして、

「いらっしゃい。お茶でも飲みましょう」といった。
 研究室のソファにふかく身を沈めると短いスカートから膝のうえまでむきだしになるので、桂子は浅く腰を掛けて、そろえた脚を斜にした。玉露を竹の仙媒ではかって急須に入れながら堀田の眼が鋭く動いて、その桂子の坐りかたを一瞥したようだった。
 桂子はまえにこの研究室に来たときの、部屋の匂いをおぼえていた。タバコの匂い、かすかな新茶の匂い、本の革表紙や糊の匂い、それにきょうはグレープフルーツか何かの匂いもまじっていた。
 「御無沙汰しておりました」と桂子がいうと、堀田は驚いたように顔をあげたが、
 「そう、あなたには一年近く会わなかったことになるね」といった。
 「わたしのほうはときどきうしろ姿をおみかけしていましたけれど、先生のお歩きになるのが速いので追いついて声がかけられなかったんですわ」
 「ぼくの歩くのがそんなに速いの?
 「わたしも女にしてはずいぶん速足のほうですけれど」

 「今日は桜の下をゆっくり歩いてきましたよ。ほんとうはこわくなって駆けだしたいのをじっとこらえてね」

「先生も桜がこわいのですか」

「こわい。明るい真昼に満開の桜が幽霊の衣みたいに空にかかっているのをみると体が冷えきってしまうほどこわいものですよ」

 

 

桜を怖がる

気味悪く感じる

疎ましく思う

といったこんな感覚は

かつては

桜に対する時の思いのひとつだったが

2000年を過ぎた頃からは

意識されることが減って

桜といえばポジティヴに美しいもの

という評価ばかりが

聞かれるようになった

 

桜の美を謳うのは

それはそれで

長い歴史のある紋切り型の振舞いだが

日本の文化史は

それ以外の思念や感情も

桜に対しては培ってきていた

それを

倉橋由美子など開くと

ふいに

思い出させられる

 

本というものの

これが

恐いところで

おもしろいもので

いつになっても

ふいに

ゆくりなく

手に取って

開いてみるべきものが

本というもので

あるらしい





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