これから来る季節への
心づもりをするような気持ちもあって
倉橋由美子の
『夢の浮橋』(1970)など
開いてみる
最初の「嵯峨野」という章は
このように
始まっていた
三月初めの嵯峨野は地の底まで冷えこんで木には花もなかった。
嵯峨野に来たのは桜のころが一度に、あとはいつも秋であった。
桜の前の嵯峨野も
桜の盛りの嵯峨野も
その他の季節の嵯峨野や嵐山もさんざん見た末に
この冒頭をあらためて読むと
「地の底まで冷えこんで」という表現や
「花のまえの嵐山は見慣れぬ他人の顔をして」という表現や
「心まで冷えこむさびしさ」という表現は
ちょっと違っているのではないか
と思ってしまう
寒い時期の嵯峨野は
「地の底まで冷えこんで」とか
「心まで冷えこむさびしさ」というのではなく
どんなに寒くても
どこか表層的な襖絵のような寒さで
枯れた冷たさの底に冬の肌のぬくもりが潜んでいるような
そんな寒さと感じることが多かった
作者が好きに形容すればいいことなので
異議申し立てのようなことを言っても詮ないのだが
それはともあれ
この人生であまりに馴染みすぎた場所のひとつの嵯峨野が
こんなふうに提示されてくるのは
小説を読む際には楽しい
こんなふうに
嵯峨野を出してくるような小説では
日本の場合
落ち着いた取り澄ました
文科省公認のような公序良俗的な内容を
ながながと退屈に述べていくようなことはしないもので
倉橋由美子のこの小説でも
10ページも行かないうちに
緊縛だのスワッピングだのの性愛談義に落ちいっていくので
家族で回覧できるような
無難なつまらない小説を避けたがるような読書家は
あわてて『夢の浮橋』 を
リストから外さないようにしたほうがよい
ところで
この『夢の浮橋』では
すっかり薄っぺらに俗化し切った平成から令和がお得意とする
脳もなく
芸もなく
わあキレイ
わあステキ
わあスゴイ
などと
満開の桜を褒めあげるような路線を取っていないことに
あらためて感心させられる
昭和の反骨精神健在
とでもいうところだろうか
主人公の桂子も
彼女が訪ねる大学教授も
桜を恐れているのだ
今年は花が遅いといわれていた。
それでも入学式のころには大学の桜並木は雲をかぶったようで、
おととしの花のさかりは入学式よりも早くて、「
「どうだろう」と耕一は花空に顔を向けていった。「
「でも秋よりもこんな花ざかりの下が恐しいわ。
「鬼になってごらん」
そういわれて桂子は口で笑ったまま眼にかなしみを集めて耕一をみ
「先生」と桂子のほうが息をはずませると、堀田はにっこりして、
「いらっしゃい。お茶でも飲みましょう」といった。
研究室のソファにふかく身を沈めると短いスカートから膝のうえま
桂子はまえにこの研究室に来たときの、
「御無沙汰しておりました」と桂子がいうと、
「そう、あなたには一年近く会わなかったことになるね」
「
「ぼくの歩くのがそんなに速いの?」
「わたしも女にしてはずいぶん速足のほうですけれど」
「今日は桜の下をゆっくり歩いてきましたよ。
「先生も桜がこわいのですか」
「こわい。
桜を怖がる
気味悪く感じる
疎ましく思う
といったこんな感覚は
かつては
桜に対する時の思いのひとつだったが
2000年を過ぎた頃からは
意識されることが減って
桜といえばポジティヴに美しいもの
という評価ばかりが
聞かれるようになった
桜の美を謳うのは
それはそれで
長い歴史のある紋切り型の振舞いだが
日本の文化史は
それ以外の思念や感情も
桜に対しては培ってきていた
それを
倉橋由美子など開くと
ふいに
思い出させられる
本というものの
これが
恐いところで
おもしろいもので
いつになっても
ふいに
ゆくりなく
手に取って
開いてみるべきものが
本というもので
あるらしい
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