唐代の禅者で華厳学者だった圭峰宗密は
このように言っている
空寂を以て自身となし
色身を認むることなかれ
霊智を以て自心となし
妄想の念を認むることなかれ
これ即ち朝暮修行の用心なり
つねにじぶんを空寂と見られれば
もちろん現世の問題はすべて消滅する
簡潔にして完璧な教えといえる
圭峰宗密のこの言葉を好んだらしい
『沙石集』の著者の無住は
よしもなく地水火風をかりあつめ我と思ふぞ苦しかりける
という歌をつくって
これに答えた
「空寂を以て自身とな」すことに
努めたのだろう
とはいえ
そういう無住も
『雑談集(ぞうだんしゅう)』に
80歳頃になっての述懐を記している
「老後の述懐」と題された三首である
皆人に遠ざかり行く老が身ぞ深き山辺に入る心地する
老らくは問来る人もなかりけり長き命ぞ深きみ山へ
よしさらば尋(たずね)
真言宗や律宗
さらには
天台宗や浄土宗や法相宗にも通じ
禅も学んでいたという
鎌倉時代後期の
偉大な学僧の無住にして
こんな述懐を残しているのだが
説法の相手が
読み書きのできない民衆であったために
あるいは
民衆の感慨にまで降りていっての
述懐の歌であったか
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