2025年2月14日金曜日

莫妄想

 

 

偽情報だの

フェイクニュースだのと

既得権益者たちや

旨い汁を吸い続けようとする社会的白蟻たちからの

CIAの攪乱機関として整備されたオールドメディアを通しての

あいかわらずの決めつけの連射で

俗界は

まこと

かまびすしい

 

ひろゆきの口調で

それってオールドメディアが発しているに過ぎないことですよね?

といなしたほうがいい状況だし

とうに

そんな時代になっているようだ

 

オールドメディアというより

わがフランス革命時代の同士諸君の言いかたで

アンシャン・メディアとでも

もう

言い換えてやったほうがいい

 

しかし

俗界や物質界を

ただの修行場としてのみ見て

覚醒や悟りを追求し続ける者たちの界隈でも

どれは偽情報だ

どれはフェイクだ

どれは妄想だ

といった摘発しあいは古来激しい

むしろ

もっと激烈で

たいていの悟りや覚醒は

別の錯誤への陥落であったり

いっそう深い迷妄への没入であったりと

酷評されまくる

 

禅寺や枯山水の完成者であり

天龍寺庭園や西芳寺庭園の作庭家で

いわゆるわびやさびや幽玄の確立者のひとりだった

夢窓国師については

ともすると

群を抜く禅者としての面が看過されがちになるが

七度も「国師」号を授与されている圧倒的な禅者であった

後醍醐天皇からも

足利尊氏や直義からも尊崇されている

むろん

権力者や権威から敬意を受けたかどうかは

どうでもいいことだが

ともかくも

そこらのスピ系界隈で

マインドフルネスふう簡易書籍を出して禅者ぶっている輩とは

存在のしかたのレベルが違い過ぎる

(ちなみに

昔の超越瞑想のような怪しさに満ち満ちたマインドフルネスへの

批判については

昨年末に翻訳の出た

エヴァン・トンプソンの『仏教は科学なのか 私が仏教徒でない理由』*

を読んでおくべきだろう)

 

夢窓国師の凄さは

彼自身の『夢中問答』に全開している

 

浄土穢土へだてあり、迷悟凡聖同じからずと思へるは妄想なり。

聖凡のへだてもなく、浄穢の別なしと思へるも亦妄想なり。

仏法に大小、権実、顕密、禅教の差別ありと思へるも妄想なり。

仏法は一味平等にして、すべて勝劣なしと思へるも妄想なり。

行住坐臥、見聞覚知、皆是れ仏法なりと思へるも妄想なり。

一切の所作所為をはなれて別に仏法ありと思へるも妄想なり。

万法は皆是実有なりとみるは凡夫の妄想なり。

万法は皆是無常なりと見るは小乗の妄想なり。

万法の上において常見断見を起すは外道の妄想なり。

或は如幻即空としり、或は中道実相と悟るは菩薩の妄想なり。

教外別伝の宗旨あることをしらずして、

教門に執着するは教者の妄想なり。

教外別伝として教門よりも勝れたる法門ありと思へるは

禅者の妄想なり。

 

ここでは

仏教の方法論のすべてが妄想として切り捨てられている

これだけすべてを「妄想」と断じられていく結果として

夢窓国師のこの言説さえも妄想とされる言説の力学を発生させてもいる

思ったり言葉にしたりすれば

すべては「妄想」とならざるを得ないわけで

そのことをこのように言葉で表現した点では最高の言語表現といえ

悟りや覚醒においては

思考と言語化を完全に捨てなければならないが

それをこれほど効果的に言語化した導きは

ナーガールジュナ(龍樹)を除けば

夢窓国師しかいない

 

この後で

もし

言葉でなにか言うならば

中国の禅者の無業が言ったように

「莫妄想」

しかないだろう

 

「妄想する莫(なか)れ」

ということである

 

「汝自身を知れ」

よりも

はるかに厳しく

鋭く

導きとして冴えきっている

 

 

 

 

 

*エヴァン・トンプソン『仏教は科学なのか 私が仏教徒でない理由』(藤田一照+下西風澄訳、Evolving,2024)

[Why I Am Not a Buddhist, by Evan Thompson, Yale University Press, 2020]

 




0 件のコメント: