2025年2月13日木曜日

世界

 



母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね? 
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、 
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

西條八十 「帽子」

 

 

 

 

世界とは意識されているもののことであり

意識されているものは人によって異なるので

世界はひとによってそれぞれ異なっている

だから世界はひとつになどなりようがない

ひとつということを言い出す者はみな詐欺師であり

詐欺師にはとにかくついていかないことだ

 

むかしむかし

ある国に住んだことがありました

 

キリスト教国でもないのに

その国では

214日をヴァレンタインデーと呼んで

女の子が好きな男の子に

チョコレートをあげる習慣ができていました

ほかの品物をあげる女の子もいました

 

ぼくは好きでもない女の子から

手編みの毛糸のマフラーをもらいました

マフラーといっても

売っているような立派なマフラーではなく

毛糸の量の少ない隙間の多いもので

首に巻けばマフラーにはなるものの

すごく寒い時には役に立たないような

すかすかのへなへなのマフラーでした

 

それでも時間をかけて編んでくれたのは

よくわかります

わざわざぼくにくれるなんて

ありがたいことだなあと思いました

手にとってしげしげ眺めては

よくこんなのを作ってくれたなあ

でもあまり役に立たないなあ

などと考えてちょっと悩みました

 

しかもその女の子は蛇のような顔つきで

クラスじゅうの男の子に嫌われていました

目がすごく悪くて特別のコンタクトをつけ

その上にさらにメガネをかけてもいたのです

目のあたりをいつもバッテンのようにして

顔をしかめて物を見ていました

 

ぼくはその子を嫌ってはいませんでしたが

かといって特別視してもいないので

急にマフラーをもらって困ってしまいました

今後はすこし気にしないといけないかな

と思わされたからです

 

次の年のヴァレンタインデーにはチョコをもらい

また次の年にもチョコをもらいました

その子と格別なかよくなるでもなく

かといって避けたりするでもなく

そのうち学校を卒業して会わなくなりました

一度も外で使わなかったマフラーは

仕舞ったままその後どこかへ行ってしまいました

 

大人になってから一度その子に会ったことがあります

共通の友だちを介して連絡が通じて

どこかのカフェでちょっと話してみたのでした

弱視にとってはありがたい技術の進歩があって

性能のいいコンタクトが容易に手に入るようになり

メガネもかける必要がなくなったと言っていました

目のあたりもすっきりしてふつうの顔になっています

 

結婚してから息子もふたりできたそうだけれど

上の息子は就職したものの退社してしまって

家に戻ってきて無職でいるので困ると言っていました

夫は末期ガンになっているけれど

何年も末期ガンのまま仕事を続けているそうでした

末期ガンだというのに大酒飲みで煙草吸いで

何度言っても言うことを聞かないと言っていました

 

悠々自適に奥さんをしてなどいられず

家計のために忙しく働いているとのことでした

塾の英語の先生をしているそうで

テストを作るだの採点するだの指導するだの

そんな話をけっこう細かく話して

夕方からの授業があるからそれじゃあね

とカフェから去っていきました

ふたりで飲んだコーヒーの紙コップや

安いデニッシュを載せていたお皿などを

ひとりでかたづけてぼくもカフェを出ました

 

そういえばマフラーのことを話さなかったな

話したら彼女はどう思ったかな

などと考えながらメトロの駅へ向かいましたが

むかしマフラーをわざわざ編んで

ぼくにプレゼントしてくれた女の子の心は

いまの彼女とはすっかり離れて

どこかに行ってしまったのか

それともふらふら浮遊しているのか

なんだか儚いような

さびしいような

ぼくとしてはやっぱり申し訳ないような

しっとりしているような

ひどく乾いているような

せつない夕暮れに

包み込まれていくようでした

 

ある国に住んでいた

むかしむかしのことです






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