母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
西條八十 「帽子」
世界とは意識されているもののことであり
意識されているものは人によって異なるので
世界はひとによってそれぞれ異なっている
だから世界はひとつになどなりようがない
ひとつということを言い出す者はみな詐欺師であり
詐欺師にはとにかくついていかないことだ
むかしむかし
ある国に住んだことがありました
キリスト教国でもないのに
その国では
2月14日をヴァレンタインデーと呼んで
女の子が好きな男の子に
チョコレートをあげる習慣ができていました
ほかの品物をあげる女の子もいました
ぼくは好きでもない女の子から
手編みの毛糸のマフラーをもらいました
マフラーといっても
売っているような立派なマフラーではなく
毛糸の量の少ない隙間の多いもので
首に巻けばマフラーにはなるものの
すごく寒い時には役に立たないような
すかすかのへなへなのマフラーでした
それでも時間をかけて編んでくれたのは
よくわかります
わざわざぼくにくれるなんて
ありがたいことだなあと思いました
手にとってしげしげ眺めては
よくこんなのを作ってくれたなあ
でもあまり役に立たないなあ
などと考えてちょっと悩みました
しかもその女の子は蛇のような顔つきで
クラスじゅうの男の子に嫌われていました
目がすごく悪くて特別のコンタクトをつけ
その上にさらにメガネをかけてもいたのです
目のあたりをいつもバッテンのようにして
顔をしかめて物を見ていました
ぼくはその子を嫌ってはいませんでしたが
かといって特別視してもいないので
急にマフラーをもらって困ってしまいました
今後はすこし気にしないといけないかな
と思わされたからです
次の年のヴァレンタインデーにはチョコをもらい
また次の年にもチョコをもらいました
その子と格別なかよくなるでもなく
かといって避けたりするでもなく
そのうち学校を卒業して会わなくなりました
一度も外で使わなかったマフラーは
仕舞ったままその後どこかへ行ってしまいました
大人になってから一度その子に会ったことがあります
共通の友だちを介して連絡が通じて
どこかのカフェでちょっと話してみたのでした
弱視にとってはありがたい技術の進歩があって
性能のいいコンタクトが容易に手に入るようになり
メガネもかける必要がなくなったと言っていました
目のあたりもすっきりしてふつうの顔になっています
結婚してから息子もふたりできたそうだけれど
上の息子は就職したものの退社してしまって
家に戻ってきて無職でいるので困ると言っていました
夫は末期ガンになっているけれど
何年も末期ガンのまま仕事を続けているそうでした
末期ガンだというのに大酒飲みで煙草吸いで
何度言っても言うことを聞かないと言っていました
悠々自適に奥さんをしてなどいられず
家計のために忙しく働いているとのことでした
塾の英語の先生をしているそうで
テストを作るだの採点するだの指導するだの
そんな話をけっこう細かく話して
夕方からの授業があるからそれじゃあね
とカフェから去っていきました
ふたりで飲んだコーヒーの紙コップや
安いデニッシュを載せていたお皿などを
ひとりでかたづけてぼくもカフェを出ました
そういえばマフラーのことを話さなかったな
話したら彼女はどう思ったかな
などと考えながらメトロの駅へ向かいましたが
むかしマフラーをわざわざ編んで
ぼくにプレゼントしてくれた女の子の心は
いまの彼女とはすっかり離れて
どこかに行ってしまったのか
それともふらふら浮遊しているのか
なんだか儚いような
さびしいような
ぼくとしてはやっぱり申し訳ないような
しっとりしているような
ひどく乾いているような
せつない夕暮れに
包み込まれていくようでした
ある国に住んでいた
むかしむかしのことです
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