2025年2月6日木曜日

随処に主となれば立処皆真なり

 

 

 

禅宗の初祖である菩提達磨が

嵩山少林寺の洞窟の中で

壁に向かって九年間坐禅したということから

「達磨面壁」という言葉が生まれ

達磨の禅法を「凝住壁観」と呼ぶようになり

さらには「大乗壁観」*と言われるようになった

 

この言い伝えを思い出すたび

思う

 

達磨ならずとも

人間はだれでもその人自身だけの壁に向いて

刻々の時の流れを過ごしている

 

どの人の人生も壁であり

人はみな

その壁に面して坐禅し続けている

 

そして

その人なりの禅法を

だれもが行じているのだろう

 

この場合の坐禅は

すでに

身体的に「坐っている」必要はない

 

そもそも

『臨済録』には

「随処に主となれば立処皆真なり」

とあって

場所も

身体のありようも

さまざまであってよい

 

かつてラージニーシ(Rajneesh)と呼ばれ

今はOSHOと呼ばれるようになっている

20世紀の覚者で

最大の破戒僧とも見えた人は

坐ることに拘束されず

動きまわったり

踊ったりする体勢も含めた

ダイナミック・メディテーションを唱えた

 

インドの大覚者シュリ・オロビンド(Sri Aurobindo)は

弟子パヴィトラに対して

 

「どのような姿勢でも瞑想することはできる

わたしはよく

歩きながら瞑想する」**

 

と答えている

 

 

 

 

*禅籍『二入四行論』

**Sri Aurobindo « Conversations avec Pavitra » Fayard, L’expérience psychique, 1972.

 






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