禅宗の初祖である菩提達磨が
嵩山少林寺の洞窟の中で
壁に向かって九年間坐禅したということから
「達磨面壁」という言葉が生まれ
達磨の禅法を「凝住壁観」と呼ぶようになり
さらには「大乗壁観」*と言われるようになった
この言い伝えを思い出すたび
思う
達磨ならずとも
人間はだれでもその人自身だけの壁に向いて
刻々の時の流れを過ごしている
と
どの人の人生も壁であり
人はみな
その壁に面して坐禅し続けている
そして
その人なりの禅法を
だれもが行じているのだろう
この場合の坐禅は
すでに
身体的に「坐っている」必要はない
そもそも
『臨済録』には
「随処に主となれば立処皆真なり」
とあって
場所も
身体のありようも
さまざまであってよい
かつてラージニーシ(Rajneesh)と呼ばれ
今はOSHOと呼ばれるようになっている
20世紀の覚者で
最大の破戒僧とも見えた人は
坐ることに拘束されず
動きまわったり
踊ったりする体勢も含めた
ダイナミック・メディテーションを唱えた
インドの大覚者シュリ・オロビンド(Sri Aurobindo)は
弟子パヴィトラに対して
「どのような姿勢でも瞑想することはできる
わたしはよく
歩きながら瞑想する」**
と答えている
*禅籍『二入四行論』
**Sri Aurobindo « Conversations avec Pavitra » Fayard, L’expérience psychique, 1972.
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